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イッセイエッセイ

1197号 スペインのこと―フェリペ二世の時代(その3-2)

2017年01月11日(水)

(重臣の運命―首都移転の逸機)
 上記の併合に当っては、フェリペ二世は、王を裏切った秘書官たち(詳細は省略)を処分し「陰謀の10年間に訣別」するため、経験豊かで素早い判断と果断な行動のできる政治家の顧問官を得て、ポルトガルの王位継承をとり逃がさないように努めたのである。そして、意中の人物としてネーデルランド政府を解任されていてイタリアでくすぶっていた、年老いたグランベル枢機卿を呼びもどして対処したのであった。
 ポルトガル併合の成功後は、国王自身はリスボンに残り、グランベル卿には首都マドリッドで政務を分担させた。その結果、両者の政策の食い違いが政策に鮮明化し、この顧問官はフェリペの恩顧を最後まで保持することができなくなった。
 顧問官グランベルは、ポルトガルの併合がスペインに新たな国難をつくり出したとしても、スペインに絶好の機会(海運力の大幅な増大―大西洋の長い海岸線と世界最大規模の商船隊の保有)をもたらすと察知していた。だが、これらの献策が国王に十分理解されず、残念ながら助言は生かされることなくスペインは好機を逸してしまった。
 「1585年に、グランベルはフェリペに・・・・・・・・・・・政府をリスボンに移すことを力説した・・・・・・・・・・・・・・・・・グランベルの見解によれば・・・・・・・・・・・・そこは新しい大西洋の戦場を見渡す完璧な監視所であった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。リスボンは海路によって世界の中枢部へ容易に通ずる連絡網を持っていることから、フェリペは、そこから、西ヨーロッパおよび大西洋海域で現在くり広げられつつある途方もなく大きな戦いに対して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・実質的な指導権を保持できたはずであり・・・・・・・・・・・・・・・・・・イギリスに対する作戦とフランスへの介入を指揮できたはずである・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。だが、国王は紛争地域からはるかに隔たったカスティーリャの中心部(拙注―首都マドリッドのこと)に残ることに決めた。1590年代の中ごろには、スペインが大西洋の戦いに敗れたことがすでに明白になった。グランベルの予言した『最終的な破滅』が近づいていた。この破滅は、北部のプロテスタント勢力の勝利によって、突然起った。ポルトガルの獲得によってスペインに与えられた戦略的な機会をもっと効果的に利用しておれば・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この破滅は多分回避できたであろう・・・・・・・・・・・・・・・・。」(第7章<3>ポルトガルの併合 311―312頁、傍点小生)
 本書において一番歴史的に重要だと考える箇所は、首都をマドリッドからリスボンに移転しなかったことではないだろうか。
 国王に奉仕する機会を拒絶されて、深い絶望のうちに1586年にグランベルは死ぬ。本書にはかつてグランベル卿の政敵であったアルバ公爵の言葉が引用されている。
 「国王というのは、臣下をミカンのように扱う。国王はジュースを手に入れようとするが、ひとたびミカンのジュースを飲みつくしてしまうと、そのミカンを捨ててしまう。」(巻末の注記によれば、この言葉はレポルド・ランケ著「オスマンとスペイン帝国」1843年の記述からの引用らしい。)

(アラゴンの叛乱1591―92年)
 スペインは当時のヨーロッパでは一大帝国であったが、イベリア半島ではそれぞれカスティーリャ(首都がある)、アラゴン連合王国、カタルーニャ、バレンシアは、その地域の旧来の「地方特権」と法律を行使することが可能となっていた。唯一、地方特権の法的拘束力を無効にする力として分野は限られていたが、王国の統一的な権威としての有名な「異端審問所」の判断があった。
 スペイン国内では、中央のカスティーリャ人は、帝国からあらゆることを愚かにも傲慢に要求し官職を独占し、一方で税負担に不満をとなえていた。こういうカスティーリャの態度は、結局すべてを失う破目に会うのではないかと危惧されてもいた。他方、周辺のアラゴン人たちは、国王からの関心を得る機会がすくなく、宮廷の官職から疎外されていると不満をもちながら、それでいて彼らは地方特権と国王との結びつきにしがみ続けた。
 農業労働者と領主との対立、貴族のスキャンダルなどが原因となって発生した「アラゴンの叛乱」によって、国王の軍隊が出動することになる。アラゴンが平定された後は統一される好機であったはずだが、現実は領土の統合には向わず、ポルトガルと同じように引きつづき分立したままの統治構造を残すという判断がなされた。(第7章<4>アラゴンの叛乱から)

(財政の破綻)
 「1590年代に、カスティーリャ経済には破綻をきたし始めたことを示す多くの徴候が現われたが、これは、カスティーリャがフェリペ二世の帝国の拡張をめざした冒険を遂行するうえで、過酷な負担を強いられたためである。一見インディアスの銀は無尽蔵に流入してくるように思われたので、国王は途方もなく大きな事業に乗り出す気になった。しかし、これらの事業は彼の収入をことごとく吸い上げてしまい、多額の借金をさらに大きくしてしまった。」(第8章栄光と苦難<1>1590年代の危機 321頁)
 フェリペ二世は1590年代の中頃には、年に1,200万ドゥカード以上を使っていた、と著者は述べる。無敵艦隊の編成だけで1,000万ドゥカードかかった。1590年代には、その収入能力が限界に達していたという状況なのである。

        (1)カスティーリャの税    
                アルカバラ(売上税)                   2,800  千ドゥカード(年額)

           ミリョーネス(物品税・シサと呼ばれた)        3,000
          セルビシオ(議会承認の特別上納金)         400
                                    6,200
        (2)スペイン全土からの教皇認可の税
                クルサーダ(免罪の護符収入)             912

          スブシディオ(聖職者地代・収入課税)         420
          エクスクサード(最高価値の土地の1/10税)    271
                                                         1,603
        (3)アメリカ産の銀
                                             2,000
(備考)
・セルビシオは、貴族は免税特権があり、人口の1割以上が免除されていた。
・アルカバラは、都市は「一括納税制」(エンカベサミエント)により一定額を支払って代替し、税収は物価上昇によって低下。
・カタルーニャ、アラゴン、バレンシアからは、各議会が議決した年額10万ドゥカードほどの献金を負担した。
・ナポリ、ミラノのようなイタリア地域の税は、その地域内で徴収し使用していた。
           (第5章<4>帝国財政の諸問題及び第8章<1>1590年代の危機から)
 「1620年代のある税制改革論者は、一人の貧乏人の1日30マラベディの支出のうち、4マラベディはアルカバラとミリョーネスに吸いとられていたと計算している。だが、反対論者たちはこの計算が正確であるかどうかを疑っており、……経済全体に与えた課税の影響を統計的に判断することは、依然として不可能である。」(同322頁)
 これを現代風に反訳すると、一般庶民は15%ほどの消費税を負担していたのではないかと見られる(本書の記述からは、別の歴史家たちが税負担はもっと大きかったと主張した、と読める)。ミリョーネス(シサ)と呼ばれた都市の新物品課税は、主要な消費物資とくに肉、ブドウ酒、オリーブ油、酢などにかけられ、公務員の給与、王室の維持費、国境守備費の目的税だったらしく、余ったときは公債(フーロ)の弁済にあてた。見かけは公平な税のようであったが、実際には不平等であった。なぜなら、土地所有者は課税対象品の大半を自己の土地で生産・消費できて、課税を免れたからである。
 新世界と旧世界から国庫に入ってくる多額の銀も、帝国の拡張政策の経費支出に追いつけず、1596年に再び銀行への支払不能が生じ破産してしまう。銀行家からの無期限の借入金に変更することによって妥協が成立する。その結果、北カスティーリャの金融業が犠牲になる。そしてもっと壊滅的な打撃が生じる。1588年の世界史に有名なあの無敵艦隊(アルマダ)の敗北であった。
 「この惨憺たる敗北のもたらした心理的な影響は大きく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、そのために、カスティーリャは手酷い打撃を受けつつあった。しばらくは、そのショックがあまりにも大きかったので立ち直ることはできなかったし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国民がこの敗北の意味をはっきりと理解するには時間がかかった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。だが、これまでの100年間に夢のような偉業を達成したことから生まれた無分別な楽観主義は、ほとんど一夜にして消えてしまったようである。最初の二人のハプスブルク家出身の王の、勝ち誇ったスペインと、その後継者たちの敗北主義的な幻滅したスペインとのあいだに分岐点となる年を示そうとすれば、その年は1588年であったといえよう。」(同325頁、傍点小生)

(無敵艦隊の敗北、人口の減少)
 実際のところ無敵艦隊(アルマダ)の敗北は、物資的な影響はそれほど大ではなかった(艦隊130隻のうち3分の2近くは帰還し、また間もなくその穴埋めも強力に実行できた)。しかし、プロテスタントに対するスペイン帝国を挙げての北方政策は失敗したのである。
 「からっぽの国庫と疲弊した国土という厳しい現実」を前に、老王フェリペと経験浅い王子は当惑する。1598年に、フェリペ二世は40年間の治世を終えて死ぬ。
 大西洋をとりまく新しい力学が働き始め、いよいよ世の中が変ってきたのである。ハプスブルク王朝スペインの後継王たちは、自分たちの力では十分に統御できないような難問に直面し、経験によってしか現実の教訓を学ぶことはできなかった。次は撤退戦略の道なのである。
 「16世紀の最後の10年間と17世紀の最初の10年間に、スペインが帝国の拡張をめざした大胆な事業から段階的に撤収することを余儀なくされたのは、国際情勢と国内情勢の双方によるものであった。」(同328頁)
 たとえばオランダ人は、これまでスペインのインディアスからの銀やセトゥーバル(リスボン港の近くの産地)の塩に大きく依存していたが、フェリペの交易禁止令に対抗し、カリブ海と西領アメリカに直接これらの途を求め成功する。また、アメリカ領土にスペイン本国と類似した経済(紡毛織物工業、穀物、ぶどう酒、オリーブ油の産業など)が打ち立てられ、本国からの輸出そのものが徐々に困難となった。
 さらに新大陸のインディオが、伝染病によって「人口の破局的ともいえる急激な減少」を起こし、労働力不足によりアメリカの鉱山業、農業生産、大規模なインフラの建設計画がほとんど不可能になる。
 最近聴いたNHKの「地理学で読み解くアメリカ」(矢ケ崎典隆・日大教授)(2016.7.17放送収録)によれば、ヨーロッパ人と交渉が始まった頃の南北アメリカの現地住民の人口は、5000万人から一億人であったとみられる(これは旧来の研究による人口推計に比べ、かなり大きい数値である)。しかし短期間に天然痘、ハシカなどの疫病により、1割程度にまで壊滅的に人口が激減したと解説する。人口が1000万人程度だったというかつての調査は、減少後の人口数を観察した結果のようだ。
 そして本国でも人口減少が起ってくる。
 「同時代の観察者たちに衝撃を与えた最初の点は、カスティーリャの人口の減少と農業の衰退であった。」(同331頁)
 「北部から南部への人口の移動―これは必ずしも経済発展にとって不利ではなかった―を別にして、もうひとつ別な人口移動があり、これがもたらす影響は非常に憂慮すべきものがあった。それは農村部から都市への人口流出傾向であった。カスティーリャの農民と農業労働者の地位が16世紀後半に悪化していたことを示す多くの徴候がある。」(同332頁)
 都市への人口移動は・・・・・・・・・カスティーリャを徐々に廃村の多い土地に変えていき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国の農業発展にとって悲劇的な結果をもたらした・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。16世紀後半は、地中海地方の全域にわたって、人口が増え続けているにもかかわらず、しだいに食糧生産がそれに間に合わなくなってきた時期であった。農業労働力の減少にさらされているカスティーリャも、その例外ではなかった。」(同333頁)
 以上のカスティーリャの人口減少の描写は、説明にやや相互の整合性を欠いているようにも見えるが(データの不足のためか)、要すればカスティーリャの総人口の減少と都市化の同時進行が起ったとみられ、現在の日本にもそのまま当てはまる光景である。

(内輪もめ、無気力)
 イベリア半島の土地はやせていて、気候は厳しく、内陸部交通は絶望的ともいえるほど不便であった。それゆえ土木計画や灌漑計画のようなプロジェクトに多くの金額と協力が必要であったが、技術的というよりは人為的な失敗によりほとんど実行できなかった。
 旧都トレド市の発展は外部との交通改良に懸っており、同市からリスボンまでタホ川の河川航行を可能にすることが課題であったが、沿岸の水車所有者の反対や通行料の要求、さらには南部の別流域に立地する都市セビーリャの一貫した反対によって、重要な国土改良計画が挫折する。また西方カタルーニャ平野での灌漑計画もシチリアと穀物貿易をしていた輸入商人の反対があった。セビーリャ市は河川浚渫を怠り、グアダルキビル川の橋梁も建設させなかったので、結局はこの都市の商業が破壊されてしまった。
 こうしたスペインの遠い過去の出来事を知るとき、たとえばイングランドの産業革命期の活発な運河建設ブームなどとは全く様相を異にする。また現在の日本の様々なプロジェクトに散見される各論反対に似たような既視感をおぼえ、参考になる。
 「これらの理由は、タホ川航行計画を失敗させてしまった理由と類似している。つまり、公共事業に金を投資することへの消極的態度・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・個人間および都市間の対立関係・・・・・・・・・・・・・・そして最後に・・・・・・行動する能力ばかりでなく行動する意欲をも奪ってしまう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・死んだような無気力などがあげられる・・・・・・・・・・・・・・・・・。」(同335頁、傍点小生)  
 パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。(マタイ23―13)
 外国の旅行者たちは・・・・・・・・・この国が遅れており・・・・・・・・・科学的・技術的な事柄に関心を持っていないことに気がついた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。すでに16世紀の終りころまでに、多くのスペイン人は、フェリペ四世の治世に神学者の協議会が出したかの有名な声明を誘発するような宿命論的な観念にとりつかれていたようである。」(同335頁、傍点小生)
 これはタホ川とマンサーレス川を結び運河建設計画の検討のための協議会において、「もし神がこれらの川を航行可能にしようとする意志を持っておれば、神はこれらをそのようにつくっていたであろう、とはっきり言明した」(同頁)、という話を著者が引き合いに出している。
 「それゆえに、まず第一に、経済発展を妨げたのは、技術的な困難よりも、むしろ心構えの問題・・・・・・であったといえよう」(同335頁、傍点小生)
 これはウェーバーのいう「プロテスタンティズムの精神」の対極にあるスペインの考え方になろう。前述のように極端なカトリック一辺倒、ユダヤ人追放が影響していると思われる。
 「16世紀の終わりころに平和が回復されたことは、軍事予算が削減できるという仮定の上に立てば、おそらく経済復興の好機であったといえよう。だが、改革の意志があったとしても―しかも、これがすでに問題であった―成功の見込みは、突然の大災害のおかげでほとんど潰えてしまった。」(同336頁)
 16世紀末年の大凶作、伝染病の大流行が、人口の密集したカスティーリャの諸都市を襲来する。
 「1599―1600年の疫病の大流行は、16世紀に増加した人口の大部分を一挙に奪ってしまい、カスティーリャの人口の歴史に新しい時代―人口停滞の時代、ことによると人口減少の時代―を開くことになったのである。」(同336頁)
 この人口に対する弱り目に祟り目の自然的、社会的打撃は、現代の傾向とはことなり、人口の内在的な原因によるものではなく、外生的な環境によって生じたのである。
 長期的な観点からみて・・・・・・・・・・疫病がもたらしたもっとも深刻な影響は・・・・・・・・・・・・・・・・・・経済的なものよりも心理的なものであったかもしれない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・疫病に襲われるまえに・・・・・・・・・・カスティーリャはすでに疲弊し・・・・・・・・・・・・・・意志沮喪していた・・・・・・・・。フランスとネーデルランドにおける失敗、イギリス人によるカディスの略奪、破産に追い込まれたために行なわれた国王による国民への献金要請などが原因で、無敵艦隊の敗北とともに始まった幻滅は決定的なものになった。そして、とどめを刺したのは、疫病の襲来であった。息つく間もなく災難が続いたため・・・・・・・・・・・・・・・カスティーリャはすっかり動転してしまった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長年にわたる戦いのあいだ・・・・・・・・・・・・カスティーリャを力づけてきた理想は・・・・・・・・・・・・・・・・・取り返しのつかないほど木っ端微塵に砕かれてしまった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」(同337頁、傍点小生)
 このように経済よりも心理上のショックが、スペイン人の精神に影響を与えたと記述している。スペインは神に見捨てられた国であり国民である、という観念に囚われて、国としての目的意識をすっかり失ってしまったのである。
 「カスティーリャ人は、さまざまな方法でこの幻滅の時期に反応した。楽観主義は消え失せ、それに代わって辛辣で皮肉な考え方、さもなければ、敗北からくる諦観が現われた。あきらめ・・・・と幻滅の支配する新しい風潮は、当然のことながら、16世紀の異常な状況によってすでに助長されていた、いくつかの潜在的な傾向をいっそう強化しがちであった。16世紀には、さまざまな出来事ごとが原因で、勤勉や不断の努力といったごく当り前の美徳を軽んずる傾向が、国民共通の考え方として生まれた。」(同337頁、傍点原書)
 この傾向も現在の人々の精神状態とやや通じたところがあるように思う。あきらめの心情を特徴づけるスペイン17世紀の「悪者(ピカロ)」の時代、「俺たちは働かないで食っていきたいのだ」の時代である。
 「国民全体に幻滅感(デセンガーニョ)が広がっている雰囲気のなかで、セルバンテスは『ドン・キホーテ』を書いた。……このたとえ話は十字軍を派遣したものの、それは風車に突撃するようなものであるということだけを思い知らされた国のたとえ話であった。最後には幻滅感しか残らなかった・・・・・・・・・・・・・・・なぜならば・・・・・、結局・・現実がつねに幻想のなかに割り込んできたからである・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。1590年代の出来ごとは、真剣にものを考えるカスティーリャ人に、自分たちの祖国の厳しい現実―豊かさのなかの貧しさ、無能を暴露した自国の力―を、突然に痛感させることになった。」(同338頁、傍点小生)

 そもそも「スペイン帝国の興亡」を読むことになった元のきっかけは、既述のとおり小説『ドン・キホーテ』を読み終ろうとしたときの気分に由来している。このような奇妙かつ破天荒な書き物が出版され、何故に世にうけたかがよく分らなかったからである。

(2016.12.31 記)