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イッセイエッセイ

1198号 スペインのこと―凡君と献策者(その4)

2017年01月11日(水)

(栄光と苦難)
 第8章(栄光と苦難)の<1>1590年代の危機につづく<2>指導者層の失政のあたりまで読み進むとき、読者は帝国興隆から三代目となる凡庸な青年フェリペ三世の宮廷に巣食った蓄財屋、巧言令色の廷臣たちの行動に憤りを覚え、大国スペインに対する深い同情を抱く。
 これまた日本の同時期の戦国時代や19世紀後半の幕末期に歴史的連想が及ぶこととなるのだが、外交や宗教問題は別にしても、指導者層の腐敗や無責任さにおいては、スペインほどに混乱し行き詰った状況は日本ではなかったといえる。そうなると倒幕維新などは、一体に正当性のある必然のものであったかどうか考え直してみたくなる。
 さてこの時期は、危機の時代であったばかりでなく、危機を自覚した時代、すなわち事態が悪化してしまったことを、はっきりと悟った時代でもあった。こうした自国のひどい矛盾に直面して、病んでいる社会の病理を分析し、愛国的に提言する「献策者(アルビトリスタ)」と呼ばれる人々が現われる。
 「これらの献策者の影響の下で、17世紀初頭のカスティーリャは、国中が熱に浮かされたように自己反省に夢中になり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、厳しい現実をどの程度まで甘い幻想にすりかえることができるかを知ろうと必死になった。……サンチョ・パンサがドン・キホーテという人物の幾分かを自分のなかに見出したと同じように、もっとも悲観的な献策者でさえも、心のなかでは、まだ幾分かは楽観主義者であったからである。その結果、フェリペ三世の政府は進言攻めにあい、カスティーリャ復興のための、賢明で奇想天外な無数の計画が提案された。」(同338頁、傍点小生)

 第8章<2>「指導者層の失敗」は、次王フェリペ三世を助けるべき大臣たちの無能無策と猫鼠同眠の官僚たちの佞奸ぶりの様子が記述される。読後感は愉快にはあらず、よって冒頭の部分と末尾だけを引用して、本節<2>は記し飛ばす。
 本節の最初のところ。
 「20歳の時に即位したフェリペ三世は青白い凡庸な人物であり、彼の唯一の長所といえば、悪徳にまったく染まっていないということのようであった。フェリペ二世は息子のことをよく知っていたので、もっとも危険な事態が起こることを恐れていた。……『ああ、ドン・クリストバールよ、余は、余の息子が奴らに支配されるのではないかと心配でならないのだ』。フェリペの懸念はまったくそのとおりになった。父が死ぬ以前からすでに、未来のフェリペ三世は、巧言令色のバレンシア貴族のデニア侯爵(レルマ公爵となる)の感化を受けるようになっていた。国王が死ぬとすぐに、デニアは画策して、自分の友人や親戚を国家の最高の官職につけた。」(同章<2>指導者層の失敗 339頁)
 そして最後のところ。
 「レルマ公爵の政府は明日のことにいろいろと考えをめぐらすような政府ではまったくなかった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のである。経済的現実をまったく無視したこと、明らかに手に負えない問題に直面した時には、もっとも安易な解決策に頼ったこと、また大衆とか派閥の圧力に屈するきらいがあったことなどに、モリスコ(モーロ人)の追放を行なったこの政府の全体的な考え方が適切に象徴されている。これこそは、カスティーリャがしっかりした行政能力をはっきすべき時に、他人の先例を真似することだけに満足している政治体制であったといる。この政府は・・・・・地道な政策よりも万能薬の方を好み・・・・・・・・・・・・・・・・多くの悪弊の矯正を必死に求めている社会に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仰々しい言い回しと無意味な仕草で答えるものでしかなかった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」(同348頁、傍点小生)

(2016.12.31 記)

(セルバンテスのドン・キホーテ)
 「1547年から1616年までの彼の人生は、帝国の勝利と帝国の後退というふたつの時代にまたがっている。16世紀末の危機は、武勇の時代と幻滅(デセンガーニョ)の時代とを分離し、またスペインの命運を分けたように、セルバンテスの人生を分けることとなった。不思議なことに、セルバンテスは楽観主義と悲観主義、熱狂的な考え方と皮肉な考え方とのあいだで、どうにか平衡を保っていた。」(第8章<3>社会形態 360頁)

(人口集中と不平等)
 「献策者たちは、巨大な首都が無制限に肥大化したために、カスティーリャの活力源が枯渇されているといって激しい非難を浴びせ続けたが、なんの役にも立たなかった。」(同355頁)
 「フェリペ三世のスペインが、西ヨーロッパにおける同時代のほかの社会と区別され(逆にポーランドのような東ヨーロッパ社会との類似性をいわれ)がちなのは、ゴンサーレス・デ・セリョーゴが慨嘆したように、まさに『中間階層の者たち』が欠けているためであったのである。……スペインの特異性は・・・・・・・・・この差異にあるのではなく・・・・・・・・・・・・むしろ両極端のあいだにある大きな隔たりを埋める・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・堅実で力のある勤勉なブルジョアの中産階級が欠如しているという点にあった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・といえよう。」(同350頁、傍点小生)
 レルマ公爵は、蓄財家、愛想よし、呑気、無能、怠惰、回避、軽率、口先のうまいやくざ者の登用、棚上げ、ふさぎ込み…(などのどう仕様もない言葉が連続する)。公爵及び彼の登用になる評価の不良のフランケサ、カルデロンの政府は、奇跡的にしばらく生き延びた。しかし、1618年にレルマ公爵の息子のウセダ公爵が陰謀を仕組んで父を失脚させ、その後を継いだ(第8章<2>342頁あたりから第9章<1>364頁のところ)

(改革計画)
 本書は、第9章「復興と惨禍」(改革計画、戦争の重圧、1640年、敗北と回生)および最後の第10章「帝国の墓碑銘」(中央部と周辺部、王朝の交替、挫折、業績)で終る。
 「アメリカからの銀の流入が徐々に枯渇していった原因は、鉱山を操業する費用の増大、植民者の自給自足体制の強化、新世界における副王政府の膨大な出費、そして、おそらく世界の銀価格の下落、があげられよう。このような銀の減少という事態が生じたために、財政および経済改革の問題に取り組むことが、ますます緊急の課題となってきた。」(第9章復興と惨禍<1>改革計画 364頁)
 「上申書はときには立派な内容を持つものがつくられたが、今度の上申書は実際にそのような出来ばえのものではなかった。奇妙なほど種々雑多な7つの勧告は、これまでに献策者たちが何年も言い続けてきたことから、すこしも進歩していなかった。カスティーリャの惨めさと人口の減少は『過重な税金と年貢』にその原因があるとされた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。カスティーリャ会議は税の削減と財政制度の改革を提案したが、これは、大スペイン王国を構成しているほかの諸王国にカスティーリャへの援助を呼びかけることによって、多少は実現されるはずであった。」(同365頁、傍点小生)
 フェリペ三世は、清廉潔白ではあったが無益な人生を非常に後悔しながら、1621年に43歳で死去。
 荒廃した財産を16歳の息子フェリペ四世があとを継ぐ。彼は機転がきき、利口で教養があるという点では父親と違っていたが、意志薄弱という点で父親に似ていた。生まれながらに寵臣(プリバード)に頼るように宿命づけられていた、と記されている。フェリペ四世の侍従であったオリバーレス伯爵(レルマ公爵父子よりは余程ましな人物である)は1621年から1643年の引退追放までの22年間、その仲間たちと政権を担うことになった。

(金と権力)
 「国王は、資金がなければ英雄的な行為をなしとげることができない」(オリバーレスが主人たる国王に送った覚え書きから)(第9章<1>改革計画 368頁)
 第9章 復興と惨禍の<1>改革計画、<2>戦争の重圧、<3>1640年―は主としてオリバーレスの孤軍奮闘の記述が中心である。彼の意欲と行動力に対して、著者は比較において好意的な描写をしているように思う。
 オリバーレスの国政では、綱紀粛正、地域的な税負担の平等化(重税のカスティーリャと、特権を残しているアラゴン・バレンシア・カタルーニャ・ポルトガルの是正策)、全国的な銀行の組織化、物品税の撤廃、官職課税・塩税・印紙税の導入、そして国内の軍隊の統合化を目ざしたが、うまく行かなかった。一方でイタリア領での対フランス戦、離反したカタルーニャのフランスの庇護下での独立、ブラジル海域での対オランダ戦の敗退、ネーデルランド領の叛乱、ポルトガル革命(1640年)などが次々と起ってくる。
 余談ながら、ポルトガルの革命(再独立)の報がリスボンから500㎞離れたマドリッドに届くまでに1週間も(!)かかっている。同じ時代、同じ距離の元禄期の赤穂事件の情報のスピードと比較せよ。
 スペイン帝国にその後さまざまな末期的な状況が生まれ、地域間の対立の中で対処療法だけがむなしく行なわれる(経過は省略)。
 著者は、寵臣オリバーレスについて、次のように評価する。
 「世界にまたがる大王国の将来のために、大規模な計画を立案できる幅広い展望を持ったハプスブルク=スペインの最初で最後の支配者は消えていった。彼は、壮大な計画を考え出す能力のある政治家ではあったが、残念なことに、その能力には、好結果をもたらすような首尾一貫した堅実性が欠けていたといえる。」(第9章<3>1640年 395頁)

(大仰と凡庸)
 オリバーレスが失脚した後、その甥が政権の後を継いで補佐する。なぜか大過なく職を全うしたらしいのだ。
 「オリバーレスが国王を左右する立場にいたのとは異なり、(その甥、ドン・ルイス・デ・)アロは、国王の友人として、1661年に死ぬまで、難なく権力の座に居坐ることができた。彼が権力を保持したことが凡庸の勝利・・・・・を示しているのであれば、これは大仰な言動の目立った20年間のあとにおいては、必ずしも不運なこととはいえなかった。」(第9章<4>敗北と回生 396頁、傍点筆者)
 フェリペ四世は1665年に死去し、当時4歳のカルロス二世に引き継がれる。この即位した幼王は1700年まで35年統治。その間に異母兄ファン・ホセの1679年クーデターがあった。その後、悲喜劇的なコミックオペラのような政治史が展開するがこれも省略。
 17世紀半ば以降におけるカタルーニャについての描写。
 1640年以降は、これまでの中央カスティーリャが周辺に統合圧力をかけるのを常としていたのとは逆に、周辺地域がカスティーリャに干渉するようになる。
 「フランス人との絶え間ない戦争状態にもかかわらず、カタルーニャのゆるやかな回復は、近代スペインの歴史におけるもっとも重要な経済的変革の前触れであったといえよう。半島における経済的な優位は中央部から周辺部に移っていった。周辺部では、税の負担は中央部にくらべると軽く、経済活動は全面的な衰退をみたわけではなかった。外国人の旅行者ならば、周辺地域の活気と人口の多さを見て、カスティーリャの荒廃と惨めさをよけいに感じるに違いない。失敗したとはいえ、ドンファン・ホセのクーデターが示しているように、周辺地域が大スペイン王国の政治生活へ介入する度合いが高まったことをみても、中央部から周辺部へ重心が徐々に移動していることがより明らかになっている。」(第10章<1>中央部と周辺部 421頁)
 「この時期になると、半島における国内的な変化は実質的になんの重要性も持たなくなってしまった。スペインは、もはや自国自体の運命を決める主人でさえもなくなった。困難な王位継承問題がスペインに暗い影を投げかけ、その将来はいまや、パリ、ロンドン、ウィーンおよびハーグにおいてなされる決定に大きく左右されるようになったのである。1690年代になると、スペイン王位継承問題は深刻な様相を帯びてきた。」(第10章帝国の墓碑銘<2>王朝の交替 422頁)

(ハプスブルク=スペイン王朝の消滅と原因)
 カルロス二世には、最初の妻マリア・ルイサとの間に子供がなく、二度目の神聖ローマ皇帝の妹マリアナとの間でもほぼ同様に見込がなくなった。国王カルロス二世は1700年に死去する。
 列強はスペイン国王の遺産を獲得しようとして策略と争いを展開し、最後にはフランスのアンジュー公爵がフェリペ五世としてスペインを統治することとなる。ハプスブルク王朝からブルボン王朝の手に統治の権力が移った。そして過去の歴史によくみられたように、最後までカタルーニャ議会が抵抗し、独立運動を展開するが、結局1714年に降伏し、スペイン全土がフランス的な中央主権国家(スペイン=ブルボン家)となる。
 以下、本書の総括的な記述。
 「カスティーリャの歴史が持つ悲劇のひとつは、フェリペ二世の治世の終りまでに、カスティーリャが、新しい経済的な現実に適応するには・・・・・・・・・・・・・・・・もっとも大切にしている理想を犠牲にするという代償を払うしか方法がないように思われる状況に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・置かれたことである・・・・・・・・・。どんなに献策者たちの警告が厳しいものであったとしても、戦争の栄光に代わるものを・・・・・・・・・・・・退屈で複雑な会計簿に見つけ出したり・・・・・・・・・・・・・・・・・いままで軽蔑することを教えられてきたつらい肉体労働を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・卓越した地位に引き上げたりすることは・・・・・・・・・・・・・・・・・・戦争を糧にして育った社会にとっては・・・・・・・・・・・・・・・・・難しいことであった・・・・・・・・・。とくに外国人が異端者である場合が非常に多かった時期に、外国人の考えや経験を取り入れることは、このような社会にとってかなり難しいことであったのである。なぜならば、カスティーリャの、外の世界に対する本能的ともいえる不信の念は、16世紀ヨーロッパの数々の宗教革命によって非常に強められたからである。一連の悲劇的な事件のおかげで、信仰の純粋性は、フェリペ二世の治世の間に、同時代のヨーロッパのいくつかの地域で受け入れられつつあった考え方や価値観に対する根本的な敵意そのものにすり代ってしまった、この敵意の態度はスペインを外の世界から部分的に孤立させることになる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。そのため、国の発展は特定の決まった方向に限られてしまい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新しい理念を育て上げ・・・・・・・・・・新しい状況と環境に適応していく能力は低下してしまった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のである。」(第10章<3>挫折 432頁、傍点小生)
 本書はスペインの歴史であるから、スペイン語の人名、地名、制度名などわれわれにとって馴染みのない言葉が、不明な地理上に展開されるので、十分な理解には及ばないところがある。しかし本書によって、これまで未知であったスペインという国の歴史や国民の精神というものがわかる。
 それにしても、日本の世界史の授業ではスペインのことは英・仏・独などに比してほとんど等閑に付されている。今の日本の条件を考えるとき残念なことだ。

(2017.1.1 記)