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イッセイエッセイ

1256号 批判、弁明

2017年07月29日(土)

 あるものを批判、非難する方法としては、事実をもってする方法が基本である。それを元にして様々な変化形が世の中にはありうる。まったく事実とは別に批判行為がなされることがあるが(事実を無視しているわけではない)、当然その時は利害にからむことが多いから、反撥が起こるのが一般である。また事実というのは在るようでないような性質であり、とくにそれが内容に入り込むとすこぶる不分明になる。結局のところ争点が、せいぜいある決まった手続や順序を踏んでいたかどうかというレベルに矮小化されて、yes、noの扱いやすい形に単純化される。また事実や手続関係と客観的に言ってみたところで、それらには人間の行為や記憶が加わっている訳だから、自己の記憶を証拠にして、真実らしきことに対して抗弁がなされる時は、問題が不明瞭の中に消失してしまう。いま問題を個人の事柄として扱ってきたが、これを団体や国家の間に置きかえても、同様な事態が発生することになり、現在の出来事はもとより多くの歴史的事件の評価に広げても、はたして真実かどうかはひとまず力の理論を伴って判断されることが通常である。したがってこれを究明し直すという仕事は、歴史家の大きな難しい任務である。
 さて、元の個人に対する批判や非難の件に話を戻す。
 カントは「徳論の形而上学的基礎原理」というものを、『道徳哲学』(1797年)の本の中で明らかにしている。ここではこの本の内容全体にわたることを記す目的ではないので、上記の批判や非難などに関した事柄をカントがどう感得しているかだけを紹介する。
 この問題に係わる用語を巻末の事項索引を調べるならば、「誹謗」、「侮蔑」、「陰口」、「嫌悪」、「激情」といった関連用語があり、当然これとは反対の崇高な心情を表す用語もある。残念ながら本書の用語の索引は十分ではない。「非難」や「軽蔑」という語とその形而上的解説は索引には出ていなくて、本文中にだけ存在する。「他人の徳に対する、彼らに相応せる尊敬からの徳の義務について」(第一篇第二部第一章第二節)という場所に出てくる。(岩波文庫143~144頁)
 「他人を()()()()()()即ち人間一般にふさわしい尊敬を他人に払われないことは、如何なる場合に於いても義務に反している。何となれば人間だからである。勿論他人を相互に比較して一方を他方よりひそかに()()()()()()()()は時として止むを得ない事であるにしても、軽視をあからさまに表示することは無礼である。()()()()()は軽蔑の対象とはならない。それ故悪人もそうはならない。」悪人は刑罰によって汚辱されると考えるのである。
 カントはまたこの箇所で「非難」の用語を使って、「人間の過失を不合理とか無意味な判断とか等の名の下に()()することなく<…>」、後の虚妄と錯誤の可能性を示して自己の悟性に対する尊敬を保持せしめること」をしなければならぬと言っている。又、「悪徳を()()するのもこれと同様」であり、「その非難は決して悪徳者を徹底的に軽蔑することや、又彼の凡ゆる道徳的価値を剥奪することなどに了ってはならない。なぜならばこのような仮説に従えば彼は決して改善せられることは出来ないであろうし、このことは人間の理念と一致することができないから。
 「人間は本来(道徳的な存在者として)善への凡ゆる素質を決して失うことができないものである」と言うのである。
 こうした哲学的立場は、法廷や政治論争の場で果たして成り立つ考え方であろうか。

(2017.7.2(日) 記)