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1259号 テイラー著「第二次大戦の起源」(2)

2017年07月31日(月)

<第3章 「大戦後の10年間」>
 1921年まで、平和条約の大部分が実施されていた。それがだんだんと論争の対象ではなくなるだろうと考えられたのも十分理由があった。<…>だが、全く逆のことが起こった――平和条約にたいする怒りは年毎に高まったのだ。というのも平和条約の一部は依然として未解決のままであって、この点をめぐる論争が平和条約全体をたえず問題にしたからである。未解決の争点は賠償の支払であった(63頁)/フランスは依然としてその額を押上げようとしたのに、イギリスはそれを引下げようとした。ドイツは全く協力しようとしなかった/合意はついに得られたが(・・・・・・・・・・・)ここまで13年を要したし(・・・・・・・・・・・・)しかも年月は(・・・・・・)()()ゆる面で疑念と不満を増大させた(・・・・・・・・・・・・・・・)フランスはとうとうだまされたと思ったし(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ドイツは強奪されたと(・・・・・・・・・・)()()()賠償は戦争熱を存続させたのである(・・・・・・・・・・・・・・・・)(64頁)/賠償はドイツにおいても、また同じくフランスにおいても民主主義に多大の損害をもたらしたのである(66頁)/
 賠償問題はまた、フランスとイギリスとの関係にも重大な影響を及ぼした/大戦終結時に、イギリスも――政治家も世論も――フランス同様、賠償熱にうかされた。<…>だがすぐにイギリスは立場をかえた。ドイツの全商船を奪うや否や、賠償の愚かさを非難しはじめた。あるいはケインズの著作に影響されたのかもしれない。イギリスのさらに実際的な動機は、自己の輸出産業の復興を促進するように、ヨーロッパの経済生活を復興させることであった/イギリスは賠償を非難すると、すぐに平和条約の他の条項<軍縮、国境問題、新しい民族諸国家などの安全保障要求>をも非難した/イギリスには苦情を述べる(・・・・・・・・・・・・)もっとも(・・・・)()()()理由があった(・・・・・・)1931・・()イギリスはやむなく金本位を離脱した(・・・・・・・・・・・・・・・・・)大戦で破壊されたと主張する(・・・・・・・・・・・・・)()()()()()安定した通貨とヨーロッパ最大の金準備をもっていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)/賠償の最も破局的な影響を被った(・・・・・・・・・・・・・・・)()()ドイツ人自身である(・・・・・・・・・)(67頁)/だが、いやしくも何らかの効果があったとすれば、ドイツの軍縮は経済的に有益であったということである。これは普通のドイツ人に分ることではない。普通のドイツ人は(・・・・・・・・)賠償(・・)()ために一層貧しくなったから軍縮も同じような影響を及ぼしたはずだと思ったのである(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)平和条約(・・・・)()領土条項についても同様であった(・・・・・・・・・・・・・・・)/ドイツ人は利己的であったために(・・・・・・・・・・・・・・・)あるいは途方もなく愚かで(・・・・・・・・・・・・)()()()ためにこのような見解を抱いたのではない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ケインズのようなイギリスの開明的な自由主義者(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()()()()労働党の殆んどすべての指導者たち(・・・・・・・・・・・・・・・・)ヨーロッパ問題に考えをめぐらすあらゆるアメリカ人も(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()()()()見解を抱いた(・・・・・・)のである(69頁)/

 こうした神話は今日まで続いている、と著者は言う。ドイツの当時の経済的困難が不公平な国境や内政上の失政にもとづいた、と明瞭に論証もできない。第二次大戦後、多くの領土を失ったドイツのその後の繁栄の理由は何か、今日の独仏とEU問題との関係の議論にもつながるか。

  他のドイツ人が平和条約の修正が強国ドイツの復活に必要であると主張したとき(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)シュトレーゼマン(・・・・・・・・)()強国ドイツの復活こそ必然的に平和条約の修正をもたらすとした(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)のである/彼は大戦中は好戦的なナショナリストであったし、大戦後ですらビスマルク同様に道徳的原則から平和を欲したわけではなった。だがビスマルク同様、彼も平和はドイツの利益であると信じた。この信念のために彼をビスマルクとならぶドイツの、さらにはヨーロッパの偉大な政治家と呼んでもよい。より偉大な政治家とすら呼べるかもしれない(72頁)/
 しかし、フランスもまたさしあたり適切な政治家にめぐまれた。1925年、ブリアンはフランス外相として復帰した。彼は外交的手腕ではシュトレーゼマンに匹敵したし、高潔な野望ではマクドナルドと同等であったし、ロマンチックな表現では達人であった。他のフランスの政治家はそのつもりはなくとも「きびしく」語った。ブリアンは「やわらかく」語り、しかもごく自然であった。ルール占領の結果は強硬策の失敗を示していた。ブリアンは今や機会を得てフランスの安全保障を曖昧な言葉で確認しようとした(75頁)/

 「ドイツの和解を容易にしようとしたが、それをほとんど不可能にした」――ロイド・ジョージ(首相)、「問題を現実から見事に引出す政治的達人の一人」――仏・ブリアン(首相)、ルール占領の失敗により「クレマンソーと同様にフランスにもっとも必要なのは英米との密接な関係であると確信」して左翼政権に譲った――ポアンカレ(首相)。

 <ロカルノ条約(1925年)>「非常に立派な条約」/「条約が有効であった間、英仏間のあらゆる軍事協力を妨げた」/「ロカルノ条約は『宥和政策』の最大の勝利であった」/「予想よりもはるかに遅れたけれども、ドイツは国際連盟への加入を認められた」/シュトレーゼマン、チェンバレン、ブリアンは几帳面にも連盟理事会に姿をみせた/このころは誰もソ連やアメリカの不在を嘆かなかった/ロカルノ・ジュネーブ体制における米ソの不在よりもさらに重大な欠陥は、イタリアの存在であった/後に事情が一層きびしくなると、ロカルノ条約の記憶はイタリアが事態の決定権を握っているという錯覚を生みだし、イタリアの指導者たちはこの錯覚の犠牲となった/ロカルノ時代のイタリアは力の欠如よりもさらに悪い欠陥(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()もっていた(・・・・・)道徳的評判が悪かったのだ(・・・・・・・・・・・・)(77頁)/

 ロカルノ条約の関係国は、自由な結合体で偉大な原理を代表していると主張し、これには若干のまやかしがあったものの、若干の真実がふくまれていた、と著者は言う。ボールドウィンとマクドナルドの英、独のワイマル共和国、仏の第三共和政は「まさしく民主制国家であって、表現の自由、法の支配、他に対する善意」がみられた。ソ連が示す秩序よりも優れた政治的、社会的秩序を表していた、と言う。

 これらすべては、ムッソリーニのイタリアまで拡大されると安っぽい主張となった/ファシズムは(・・・・・・)()()()()のような仮借なき推進力をもたなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)まして物質的力など及びもつかなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)道徳的には(・・・・・)まさしく(・・・・)腐敗していたし(・・・・・・・)不誠実という点では腐敗はさらにはなはだしかったかも知れない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ファシズム(・・・・・)()関するすべてはまやかしであった(・・・・・・・・・・・・・・・)/ファシストの支配は腐敗し、無能で、空虚であった。ムッソリーニ自身、理想も目的もない自惚れの強い失策ばかりするほら吹きであった/それでもラムゼイ・マクドナルドは、ほかならぬマッテオッティ暗殺の時はムッソリーニに丁重な書簡を出したし、オースティン・チェンバレンとムッソリーニは写真を交換し、ウィンストン・チャーチルはムッソリーニを祖国の救世主、ヨーロッパの大政治家と賞揚した。西欧の指導者たちがムッソリーニにこのようにへつらい(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)彼を仲間と(・・・・・)()()受け入れたとき(・・・・・・・)彼らが誠実であったとどうして信じられようか?(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)(78頁)/ソ連とファシスト・イタリアがすでに早く友好関係を樹立し、これを維持したことも驚くに値しない/勿論(・・)理論と現実との間には(・・・・・・・・・・)()()()若干の齟齬が見られる(・・・・・・・・・・)この齟齬が大きくなりすぎると支配者にも被支配者にも不幸が生じる(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。ジュネーブ体制におけるファシスト―イタリアの存在、ムッソリーニのロカルノ会議出席は、民主的ヨーロッパにおける国際連盟の非現実性を極端に象徴していた。政治家はもはや自分の言葉を信じなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()人々はこれにならったのである(・・・・・・・・・・・・・・)(78-79頁)/
 偉大な雄弁家ブリアンは、雨霰とふる善意の言葉がドイツ人の不満を忘れさせるであろうと期待した。シュトレーゼマンは、辛抱強く繰返せばフランス人にも譲歩癖が大きくなるだろうと思った。だが両人とも失望し、失敗を見ながら死んでいった。譲歩はいつも悪意をともなっていた/

 唯一ありそうな危険は「軍国主義国」フランスによる侵略行動の再開であった。<…>イタリアの自己主張にもかかわらず、ヨーロッパ大陸での唯一の大国であった。<…>だが実際上はすでにドイツにたいして行動を起こせないような決定的措置を取っていた。ドイツは人口および工業資源ではるかに優れていた。したがってフランスの唯一の頼みの綱はドイツが動員しはじめる前に圧倒的な一撃が加えることにあった。<…>軍事技術の急速な進展の中で短期的にその性格を変える余裕はなかった。1918年以降改革は全くなされなかった。<…>国内政治も同様であった(・・・・・・・・・・・)一年兵役義務の(・・・・・・・)()()()()要求があったし(・・・・・・・)1928・・()にはこれが正式に制度化された(・・・・・・・・・・・・・・)。以降、フランス陸軍は総動員されても「国土」を防衛できるだけの力しか持たなかった。兵士たちの訓練と装備は完全に防衛的な物で(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)あった(・・・)<…>フランスの政治家は依然としてドイツに対する行動について語ったが、その手段は存在しなかったのである/フランスも自覚はしなかったが、軍備によってヴェルサイユ体制に反対したといえる。()()()勝利の成果に関する議論がはじまる前に(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)もう勝利の成果を否認していたのである(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)(82頁)/

 W.リップマン「世論」(1922年)に、ヴェルサイユ会議のことが例の「ステレオタイプ論」の枠組みの実際として書いてある。「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌の中から<…>定義してくれるものを拾い上げる。<…>人類の大事を解決するためにパリに集ったそうそうたる顔ぶれのうち、何人が自分たちをめぐるヨーロッパの状況をよく見ることができただろうか。むしろ彼らはヨーロッパをめぐる自分たちの立場を見ていたのではないだろうか。」(岩波文庫(上)111頁)

<第4章 「ヴェルサイユ体制の終焉」>
 本書はヨーロッパ問題(第二次大戦の)を対象としているが、関連して、極東問題――日本のことを記述している箇所がある。満州事変に関するところであるが、通常これまでよく聞かされた論調とはやや表現がことなるので、本章の初めのところを、以下に参考に引用する。(31頁の引用―対日戦争の記述参照)
 「国際的対立を増幅させた理由は他にもあった。1931年、国際連盟は最初の最大な挑戦に直面した。9月19日、日本軍は満州を占領したが、ここは理論上は中国の一部であった。中国は原状回復を連盟に訴えた。これは容易な問題ではなかった。中国の中央政府(・・・・・・・)国民党政府(・・・・・)の権威は(・・・・)――()()()()強くはなかったが(・・・・・・・・)――満州には及ばず(・・・・・・・)ここは幾年もの間無法の混乱状態にあった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)日本の貿易(・・・・・)()重大な損害を被っていた(・・・・・・・・・)中国で独自の行動をとった国は多くの先例があった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)――その最後は(・・・・・)1926年・・・のイギリス軍の上海上陸である(・・・・・・・・・・・・・・)。さらに連盟は行動の手段をもたなかった。経済恐慌のさなかに、まだ僅かながら続いている日本との貿易関係を中断しようとする国はなかった。」(85頁)
 「いづれにせよ極東に重大関心をもつイギリスですら行動の手段をもたなかった。ワシントン海軍(・・・・・・・)()()は日本に極東での優位を認めていたし(・・・・・・・・・・・・・・・・・)歴代イギリス政府がシンガポールの基地建設を故意に(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()()したとき(・・・・)この優位を確認していたのである(・・・・・・・・・・・・・・・)。」(85頁)
 「国際連盟が日本を非難したとすれば何が得られるのであろうか?たんに道徳的公正を示すにすぎず、これが何らかの効果をもったとすれば、日本をイギリスの貿易に対抗させたことだけである。だが(・・)このような道徳的非難を支持する一つの議論があった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)アメリカは連盟構成国でなかったが(・・・・・・・・・・・・・・・・)極東に(・・・)重大な関心を持つ国であり(・・・・・・・・・)武力によって実現されたいかなる国の領土の変更も(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)承認しないこと(・・・・・・・)()提唱した(・・・・)これはジュネーブの非現実的理論家たちを力づけた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。だがアメリカは日本との貿易削減(・・・・・・・・・・・・・)()提案しなかったから(・・・・・・・・・)中国人や実際的感覚の鋭いイギリス人には慰めにもならなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)(85頁)/
 「1932年にイギリスが日本に対して何らかの行動をとったとしても――そのようなことが可能であったとして――左翼は一致して反対し帝国主義的利益の邪悪な擁護であるとしたであろう(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)労働党が(・・・・)()()()のは(・・)――ここにイギリス人の一般的気持が代表されていたが(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)――イギリスは戦争でもうけては(・・・・・・・・・・・・・)()()()() ということであった(・・・・・・・・・)。労働党は中国、日本のいづれの側にも武器供給を禁止することを提案し、この提案は挙国政府に受け入れられた。」
 「日本の不満の大部分は正当であるとされた。日本は原状回復のためあらゆる平和的手段を尽くす(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()に武力に訴えたとして非難されたけれども(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)侵略者としては非難されなかった(・・・・・・・・・・・・・・・)だが日本はこれに(・・・・・・・・)抗議して国際連盟から脱退した(・・・・・・・・・・・・・・)。」(86頁)

 以上の著者の記述も客観的であって、列強のパワーゲームとして描写している感あり。それにしてもヴェルサイユ体制下のヨーロッパの主要国――英、仏、露などの外交上の行動に比べ、何と単純で短絡な日本の行動様式よ。

<第8章 「チェコスロヴァキア危機」>
 この章は、第二次大戦の直前、仏英の不決断の中で大国間の係争に利用されたチェコスロヴァキアの小国としての運命が大統領ベネシュの奮闘とともに描かれている。現在、チェコスロヴァキアは、チェコ<1,050万>、スロバキア<550万>に分かれてしまっている。
 この国は地政的に当時ドイツ領の中につき出ていて、すでにドイツ領に合併させられてしまったオーストリアの北部に位置し、フランスとの相互防衛同盟(1925年)、ソ連との同盟(1935年)、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラヴィアと小協商を結んでいるという複雑な同盟関係を有していた。
 フランスとイギリスが援助の手をさしのべるはずべきのところを、フランスの首相ダラディエや外相のボネも同国に対して「イギリスその他の支持をたのんで指導力を発揮しようと考えたことは一瞬たりともなかった。むしろどうにも我慢のならぬ状況から逃れることのできるような何らかの方策を訴えるかのようにロンドンに期待しているかのように見えた」/「この二人がフランスを第二次大戦に導くことになったのである」(187頁)/<イギリスの首相ネヴィル・チェンバレンと、外相ハリファックスを加えて>「4人が西欧文明の運命を自分たちで決定したのである」(189頁)/<英仏の外交官の>誰一人としてアメリカに期待を掛けなかった。誰一人としてソ連との同盟を主張しなかった(188頁)

 当時の主だった政策責任者たちは狭いヨーロッパ中心の量見の中にとじ込められていたようだ。米ソの力量に考えが及んでいない。再びリップマンの「世論」からの言葉を引用する――「しかし時の中でもっとも誤認しやすいのは未来である」(世論198頁)

 「ヒットラーは依然として引き延しの名人であり、手の内をさらけださなかった。恐らくはこれまでの場合と同じく、どのように勝利を自分で得るのか自分でも分からなかったのであろう」(201頁)/
 <イギリスもフランスも>これまで長く大国であった国は(・・・・・・・・・・・・・・)もはや大国でないことを認めようとはしないもの(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)である(・・・)。<…>だが敗北より戦争を恐れた(・・・・・・・・・・・・)。ここから、ドイツおよびその同盟国の強さに関する判断の、またドイツを打倒できるかどうかという議論の見当違いが生じたのだ。ヒットラーは、勝利を期待する必要もなく、戦争をするぞと威しただけで前進できたのである」(210頁)/

 この章の終りは、世界史の教科書で有名な“戦さ止めようミュンヘンで”の1938年ミュンヘン会議におけるいわゆる英仏のドイツに対する「宥和政策」の結末の評価のところで終るのである。ヒットラーの巧妙な威しに屈して、イギリス首相チェンバレンたちが腰抜けの対応に終始したと通俗的に説明されることが多い事件なのであるが、渦中のチェコスロヴァキアは当然のこと、英仏と独の両陣営とも戦争に突入するのをいかに回避しようとしたかが、この章を読むとよくわかるのである。しかし一人ヒットラーだけは戦争を辞さずという決意をはっきりとさせていたことは事実であり、その意図の差が歴史の結果に出たのである。

 「この草案はヒットラーに通訳された。彼は熱烈に歓迎し、両人は署名した。政治家たちはそれぞれ自国に向かった。ダラディエは群衆が冷淡に迎えるであろうと予期して憂欝であった。だが驚いたことには待ちかまえていたのは歓呼であった。チェンバレンはそのような不安を抱かなかった。飛行機から降りるとき、彼はヒットラーと署名した声明書をひらひらさせて『これが成果だ』と叫んだ。ロンドンに帰る途中ハリファックスは、現在の雰囲気を利用して総選挙を行うことはしないで、チャーチルやイーデンを含む自由党と労働党との真の挙国一致内閣を樹立するように力説した。チェンバレンは(・・・・・・・)ハリファックス(・・・・・・・)と同じ観念を抱いていたし(・・・・・・・・・・・・)群衆の歓呼についても(・・・・・・・・・・)こういったものはみな三ヶ月もたてば(・・・・・・・・・・・・・・・・・)()()()といった(・・・・)と伝えられている(・・・・・・・・)。だがその夜、彼はダウニング街十番地の窓から姿を現わし、群衆に述べた。『ドイツからこのダウニング街に名誉ある平和をもって帰ったのは二度目である。これがわが時代の平和であると私は思う』」(218頁 この章終り)/

 大衆が目の前の利害に眼がくらみ極めて移り気なのを政治家は分かっているのだが、やはり彼らも同じように目先の出来事に心をとらわれざるをえない。しばらくすると民衆も政治家の間にも元の観念論が頭をもたげ、好戦的な強硬論が幅を利かし始める。

 本書の最終第11章(ダンツィヒのための戦争)は、ヒットラーのポーランド侵入を扱っている。つまり第二次大戦の直接の起源に係わる記述である。
 最後は、以下のようにしめくくられている。
 「以上が第二次大戦の起源である。あるいは、ヴェルサイユの処理をめぐる西欧三大国間の戦争の原因と言った方がよいのかも知れない。この戦争は、第一次大戦が終了したとき以来内在していたからである。この新たな戦争が決然と断固たる態度をとることによって,あるいは慰撫的な和解的態度をとることによって、回避されたかどうかについて、今後も長く議論されるであろう。だがこのような仮説の解答は見出されないであろう。いずれの政策も首尾一貫して追求すれば(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)あるいは成功したかも(・・・・・・・・・・)()()()()だがイギリス政府が実践したような(・・・・・・・・・・・・・・・・)この両者をとりまぜた政策はおよそ失敗したであろう(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)」/
 「ヒットラーは(・・・・・・)西欧の二列強が全く戦争をしないであろうと想定した点では大失策をしたけれども(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)本気で戦争はしないだろうと期待した点では結局正しかったのである(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。イギリスおよびフランスは、ポーランドを援助しようとは全くしなかったし、自分たち自身助かろうともしなかった。1918年ドイツ休戦代表委員がルトーンド鉄道客車でフォッシュの前に出頭したときはじまったヨーロッパの抗争は、1940年フランス休戦代表委員が同じ客車でヒットラーの前に出頭したとき、終了した。このときヨーロッパには『新秩序』がみられ、ドイツがこれを支配していた」/
 「イギリス国民は、ヒットラーの事業を覆えす力には欠けていたけれども、ヒットラーに抵抗しようと決意していた。そしてヒットラー自身がイギリス国民を助けることとなった」/「彼の成功はヨーロッパを(・・・・・・・・・・・)()()世界から孤立させることにかかっていたが(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)彼は何の理由もなくこの成功の基盤を破壊したから(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()()()1941・・()彼はソ連を攻撃しアメリカに宣戦した(・・・・・・・・・・・・・・・・・)この二つの世界的強国は放っておかれることを(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)望んでいたのに(・・・・・・・)。こうして真の世界戦争がはじまった。われわれはまたその影響下に生きている。だが1939年に勃発した戦争は、もう歴史的好奇心の対象となっているのである」(324頁、本書の終り)

(2017.7.11 記 2017.7.15 追記)