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イッセイエッセイ

1261号 「なぜ」から「いかに」の歴史

2017年08月26日(土)

 私たちが歴史に関心を持つ場合に、その気持の発端は、例えばいまの政府の外交やり方をどう見るかとか、最近の近隣における緊張がどうして起こっているのか、といったことがきっかけになる。そして、こうした関係の歴史をふり返る気持ちが起ったとき、その範囲は満州事変から敗戦までのさまざまな事件が、どういう人たちの考えによってどのようになされたのか、といったところに、大体疑問が及ぶことになる。このように、今の現実を見るため歴史を回顧するにしても、そんなに遠くの過去の出来事に関心が向くものでない。
 したがって歴史の勉強はあまり現実離れになってはいけないし、世界史のように壮大すぎても頭に入らないであろう。それでは事件の経緯が中心となり、観念的な議論ばかりとなって、興味を失うであろう。
 「真の歴史は、つねに個別の時代ないし個別の生活圏の叙述にとどまるであろう。そして範囲が狭くなればなるほど、ますますそれが有用なものであることが明らかになるであろう。」
 また「いかなる歴史書でも元来、良い意味で大衆的(・・・) であるべきである。」と、カール・ヒルティは百年ほど前に述べている(「歴史における主観的要素について」1904年)。ヒルティは第一次大戦の悲劇を知ることなく世を去っている。
 “第一次世界大戦がいかにして始まったか”について研究した『夢遊病者たち」(The Sleep Walkers)の著者であるクリストファー・クラーク(1960年生)は、第一次大戦について以下のように言う。
 「あれこれの国や個人に対する起訴状を作成」や「戦争責任」の問題に主たる目を向けようとするのでなく、即ち罪がたちまち焦点となってしまう『なぜ』という問いではなく、『いかに』して戦争が大陸ヨーロッパに到来したかを論じたい、と記す。そしてこのことから順番が逆となって、反射的に「なぜ」への答えを生じさせるであろうと記す。

(2017.7.23 記)

 この著書は、個別の時代を描いたものである。しかしヒルティの言うようには個別の生活圏を考察したものでないかもしれないが(もっともヨーロッパの数か国を同時代的に扱っているので個別の生活圏と言えなくもない)、戦争を避けようとしながら、結局は大きな戦争へと指導者たちが引っ張られてゆくドキュメンタリー的な個別時代の個別地域の歴史である。日本の戦争史にイデオロギー抜きのこの種の本が出版されることを期待するものである。

(2017.8.23 追記)