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イッセイエッセイ

1264号 「夢遊病者たち」(2012年)The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914 クリストファー・クラーク著(みすず書房2017年 小原淳訳)

2017年08月31日(木)

 「第一次大戦の起源を理解しようとする歴史家は、いくつかの問題に直面している。第一の、そして最も明確な問題は、史料の過剰供給である」(序10頁)

 ちなみにより最近の大戦についてクラークよりも半世紀前の著作である「第二次世界大戦の起源」(1961年)を書いたA.J.P.テイラーという歴史家の方は、全く反対の苦情を述べる。「第一次大戦の起源を研究した先学たちよりも、われわれの状況ははなはだしく悪いのに気がつく」(同書32頁)とし、その理由として、戦争責任追及の歴史的な激化による結果としての資料不足や歪曲、また外交文書・記録文書の未整備や焼却、ソ連の資料の秘密化などをあげる。
 さらに言う。
 「われわれは非公式の資料についても一層不幸な境遇にある。第一次大戦をもたらしたものはほとんど生き残り、後に長々と自己の行動の弁明ないし正当化を書き記した。第二次大戦では指導者たちのうちには、大戦中死亡したもの、戦争終結時に裁判で処刑されたもの、裁判にかけられないで処刑されたものがいたし、また執筆をいさぎよしとしないものや、慎重すぎて書けないものもいた」(34頁)。「銃殺されたイタリア外相〔チアーノ〕は日記を残した。ドイツ外相〔リッベントロップ〕は処刑されるまで断片的な弁明を書きとどめた。イギリス首相〔ネヴィル・チェンバレン〕の若干の書簡、イギリス外相〔ポーア〕の短い自叙伝もある。だが、三人の独裁者、ヒットラー・ムッソリーニ・スターリン、またソ連の外相〔モトロフ〕は、一行一字も残さなかった。われわれは二次的な人物―通訳、外務書記官、新聞記者―の語る挿話で間に合わせなくてはならないが、彼らの知識はしばしば一般大衆と変わらなかった」(35頁)、「両大戦のそれぞれ後で、開戦時に枢要な地位にいた人物が実際書いた書物を並べてみると、驚くべき対照がみられる」(34頁)、と言う。
 学問的な目的でそもそも歴史資料が出来上っているものでは本来ないから、第二次大戦に関しては、弁明的な傾向、重大事項についての関係者の沈黙、重要人物間のやり取りの無記録性などが障害となる。逆に本書のクラークの方は、第一次大戦勃発までの資料の多さ、無秩序さ、各国のプレイヤーの多さ等に悩むことになる。

 「本書は、1914年の7月危機を現代の事件、現代史上、そしておそらくはこんにちに至るまでの全時代の中でもっとも複雑な事件として理解しようと努める。本書はなぜこの戦争が起ったかを(・・・・・・・・・・・・・・・)いかに(・・・)()()この戦争が訪れたのかほどは問題としない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)なぜという問いと(・・・・・・・・)いかにしてという問いは理論的には(・・・・・・・・・・・・・・・・)分かち難いが(・・・・・・)この問いは別の方向へと向かってゆく(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。「いかに」という問いは、一定の結果をもたらす一連の相互作用を間近で観察するよう、我々をいざなう。対照的に、「なぜ」という問いは、帝国主義、ナショナリズム、軍備、同盟、巨額の融資、国民的名誉の思想、動員の力学といった、バラバラのカテゴリー別の諸要因を分析するよう我々をいざなう。このアプローチでは、一定の分析上の明確さをもたらすが、理解を歪める効果もある。このアプローチでは、原因となる圧力が着実に作り出されるという幻想が生まれる。この場合、諸々の原因が次々と上に積み重ねられ、諸々の事実を下に押しやることになる。そして政治的アクターは、長い時間をかけて築かれ、自分たちの統制を超越した権力の遂行者に過ぎなくなる。」(序18-19頁。傍点は小生、以下同じ)
 「本書が語る物語は、これと反対に、何らかの作用を及ぼした人物たちで満たされている。重要な意思決定者たち<…>より下位の官吏たちの一群<…>注意深く計画的に、一歩また一歩と危機に向かって歩んでいった。戦争の勃発は、目的意識をもつ政治的アクターによってなされた決定の、連鎖の極致であった。彼らは自己省察を行う能力を、ある程度まで備えていたし、多岐にわたる選択肢を認識しており、手に入る最良の情報を基礎にして最良の判断を行っていた。ナショナリズム、軍備、同盟、金融はいずれも物語の一部分を構成しているが、しかしそれらは――組み合わさって――戦争を勃発させた決定をかたちづくったと見なされる場合にのみ、現実に解釈に影響を及ぼすものになりうる。」(19頁)

 本書は、刊行資料はもとよりセルビア、ベルギーなどの周辺国も含め多くの関係国の文書館資料を基に史実を積み重ね、また各国の指導者(君主、大臣など)のみならず内部の政策決定者の複雑な力関係などにも目配りをして、イデオロギー的な「なぜ」よりも、「いかに」についてを論じようとしている(と著者は言明もしている)。


<第一章 セルビアの亡霊たち>
 この章は、1914年の有名なサライェヴォ暗殺事件までのセルビアの民族主義や政治文化、さまざまな個別事件を扱っている。余りに生々しくドロドロした挿話、馴じみのない人名、地名によって、読み進めることが妨害される。 

 「『全セルビアの統一』という思想を支えていたのは、セルビアについて人々が脳裏に思い描いていた一定のイメージであったが、このイメージは20世紀への移行期のバルカン半島の政治地図とはほとんど一致していなかった。」(第1章精神地図(メンタルマップ)49-50頁)
 「セルビアの外交は、この国の政治文化を覆っていた夢想的な民族主義(・・・・・・・・)と、バルカン諸国の複雑な民族政治(エスノポリティクス)の現実との不一致と格闘し続けねばならなかった。コソヴォはセルビアの神話的世界観の中心にあったが、民族的な意味においては、疑問の余地なきセルビアの領域とは言えなかった。この地域では少なくとも18世紀以降、ムスリムのアルバニア語話者が多数であった。」(56頁)
 「ナショナルな展望と民族が置かれた現実との間の齟齬(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ゆえに、セルビアが目標を遂げようとすれば、大小の諸国の関心を集める地域の次元においてのみならず、争奪の舞台となる地域の都市や(・・・)()()においても暴力的なプロセスを辿る可能性(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)が大いに高まった」(58頁)
 「多民族の協働の思想を内包したもっと寛容な政治的展望のもとにセルビアの民族的目標を包摂しようとすることで、この試練に立ち向かった者もいた。その一人が<のちに首相となる>ニコラ・パシッチであり<…>」(58頁)

 セルビア人の民衆の記憶や叙事詩の中で大切の保管されてきたのが、1389年、セルビアがコソヴォ平原においてトルコに喫した敗北戦だと語られている。日本で言えば、その時代が第一次大戦前のことであるので時代を100年現在へ近づけるとしても、はるか15世紀の応仁の乱のころの歴史的な距離感となる民族の記憶である。これをさらに二百年前に仮想的にさかのぼらせて、トルコの支配とバルカン半島(セルビア)の関係を、鎌倉末期の元寇襲来と対比させるならば、「神風」なかりせばその後の列島の運命如何なりしか、ということになるだろう。

 「セルビアのような危うげな債務者は、国庫の管理権の譲渡に同意した場合にのみ、納得のいく条件で確実に借金ができたのであるが、これは、主権国家の機能を部分的に担保にするに等しかった。こうした理由から、とりわけ国際的な借款は、外交や権力政治と密接に絡み合った、極めて重要な政治問題となったのである。なかでも、フランスの借款は高度に政治的であった。パリは、フランスの利益に反すると見なされるような政策をとる政府への貸与を断固として拒否していた。」(同章「離反」64頁)

 セルビアは、国債を大国フランスからの借金で賄い、その資金で軍事を強化し、しかも軍備品をフランスから購入させられるという植民地まがいの境遇に身をおいていたのである。

 「国際金融の領域でのこの成功に眼を奪われるあまり、セルビア経済全体の危機的状況を看過すべきではない。この危うさはオーストリアの関税政策よりも、この国の歴史と農業構造に深く根差した経済的衰退にこそ、はるかに強く関連していた。セルビアの台頭とその後の拡大には、主としてムスリ(・・・)()の町が数十年にわたる嫌がらせや国外追放を受けて人口減少したために起った(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)猛烈な非都市化(・・・・・・・)の過程が随伴していた(・・・・・・・・・・)。比較的都市化が進み、コスモポリタン的であったオスマン周辺部の帝国的構造にとってかわったのは、キリスト教徒の小農に何もかもが特徴づけられた社会と経済であり、これは一方ではセルビアには土着の貴族が不在であった結果として、また他方では統治者となった王家が大土地経営(ラティフンディウム)の定着化を阻止し、そうした支配階級の出現を防ごうと努めた結果として作り出されたものであった。」(同66頁)
 「都市が縮小する間に(・・・・・・・・・)人口は恐るべき割合で増大していった(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。何十万ヘクタールもの辺境の地が若い家族によって開拓され、結婚と出産に対する社会的制限が緩和された。しかし、この著しい人口増大が生産性の低さや衰退のサイクルを反転させはせず、こうしたことが、19世紀半ばから1914年の第一次大戦勃発までのセルビア経済を縛り続けた。」(66頁)

 トルコ帝国が半島から撤退したことによって、都市集中とは反対の「非都市化」が起り(同時代の日本とは異なる逆近代化?)、人口急増と相まって農村疲弊が生じたということらしい。しかし人口が増えた原因は何か? その時代の世界の一般的傾向だったのか。

 「セルビアでは、人的資本への投資も同様に芳しくなかった。<…>ほとんどの学級が学校として設計された建物で授業を受けておらず、児童の約3分の1しか学校に通っていなかった。こうした欠点はいずれも、農村部の住民の文化的な志向を反映しており、彼らは教育にはほとんど気を配らず(・・・・・・・・・・・・・)学校(・・)を政府から押し付けられた異質な制度だと思っていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。<…>新たな財源を認めるよう迫られて、小農が支配的であったスクプシュティナ(拙注 地方議会の呼称か)は、自家製蒸留酒ではなく、教科書に税金(・・・・・・)をかけることを決定した(・・・・・・・・・・・)その結果は識字率の著しい低さ(・・・・・・・・・・・・・・)となって表れ、最も数字の良かった王国の北部でも27%、最悪の南東部ではわずか12%に過ぎなかった。」(67頁)

 同時代の明治期の日本とは正反対に、国民教育に全く力を注ぐことをしない国があったということなのだ。

 「野心的で有能な若者のための機会を著しく欠いた経済のなかで(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)軍隊は都市部では最も目を引く(・・・・・・・・・・・・・・)存在であり続けた(・・・・・・・・)。<…>正規軍に不信感を抱き続けた農民文化が存続したために<…>セルビア誕生の物語の中心テーマをなしてきた非正規の民兵やゲリラ集団のパルチザン闘争がしぶとく生き延びることができたのも事実であった。軍国主義的な文化がますます幅を利かせ、<…>大規模で豊かな教養階層との有機的な繋がりが欠如するという状況に直面して、政府には(・・・・)民族主義こそが(・・・・・・・)()()にして最強の政治的道具(・・・・・・・・・・・)文化的力であるように思われた(・・・・・・・・・・・・・・)。およそあらゆるセルビア人が共有していた未回収のセルビアの地の併合への熱狂は<…>農地がますます狭小になり生産力が弱まっていた小農たちの土地所有熱にも浸透していった。<…>セルビアの経済的苦悩の責任はヴィーンの苛烈な関税に、そしてオーストリアとハンガリーの資本の圧迫にあるのだといった――怪しげな――議論が最も熱狂的な賛同を得るのは避け難かった。<…>海への出口を確保することで立ち遅れを打破できるのではないかという、ベオグラードの妄想を助長した。<…>セルビアの支配層が国際金融に依存し続ける事態を動かし難いものにし<…>、フランスの同盟網に1905年以降セルビアが深く絡め取られていった理由を説明しうる。」(同章「激化」68~69頁)

 セルビア王国の文民政府の弱さ、経済や産業の発展力のなさ、そして地政学上の理由から、フランスの支配下に不可避的に従属するようになる。

 「かくして、国内的には過激派が常に議論を有利に運んだのであるが(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)それは彼らの決めた表現が(・・・・・・・・・・・・)議論で用いられたからであった(・・・・・・・・・・・・・・)。そうした状況で穏健派は、過激派の言語を採用しない限り自分たちの主張に耳を傾けてもらうのが難しいという立場に立たされることになった。そしてこのことがさらに、一見すると一枚岩をなしているかのように見えた政治エリートたちの立場に実際には相違が存在する(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)のだと(・・・)、外部の観察者が認識するうえでの妨げとなった。この政治文化の危険な力学が、1914年の6月と7月のベオグラードに付きまとうところとなる。」(74~75頁)


<第二章 特性のない帝国>

 本書の題名そのものは、ヘルマン・ブロッホの小説「夢遊病者たち」から採られ、またハプスブルグ帝国(オーストリア・ハンガリー)のバルカン方面への勢力拡大の動きとロシアとの対立を扱った本章の題名は、ローベルト・ムージルの小説「特性のない男」を意識したものといわれている。以下やや要約的にまとめる。

 二つの敗戦が<1859年対仏・ピエモンテ軍、1866年対プロセイン軍との敗戦結果>、ハプスブルク帝国の最後の半世紀の指針を決定づけた。/ここから生じた政治体制は、ハンガリー王国と、オーストリア地域を中心とする領域とが、ハプスブルグ二重君主国という半透明の包装紙にくるまれて併存しているという、1つの卵に二つの黄身があるがごとき、他に類を見ないものであった。/強硬なマジャール民主主義者の目には<…>オーストリアはなおもハンガリー王国を農業植民地として食い物にしているのだ、という声もあった。<…>他方でオーストリア・ドイツ人たちは、ハンガリー人はオーストリア地域のより先進的な経済にただ乗りしているのであり、帝国を維持するための分担金をもっと支払うべきだと主張した。確執はシステムに内蔵されていた。/ハンガリーは大抵の場合(・・・・・・・・・・・)民族問題をあたかも存在していな(・・・・・・・・・・・・・・・)いかのごとく扱った(・・・・・・・・・)。<…>対照的にツィスライタニエン(・・・・・・・・・・・・・)(注オーストリア帝国側のこと)においては(・・・・・)少数派の(・・・・)要求にこたえようと(・・・・・・・・・)歴代の政権が際限なく制度をいじくりまわした(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。<…>しかしこうした民主化の方針は、単に民族対立の潜在的可能性を高め、とりわけ、学校や裁判所、行政機関といった公的な場での言語使用というデリケートな問題が深刻化するのを助長しただけであった。(対立と均衡118頁)/

 ハンガリー帝国の地域がマジャール語を他民族にも強要したのに対して、オーストリアでは公用語がなく自由にしたので、国会はドイツ語のほかに9つの言語使用が認められ、通訳もないため国会での「彼らが進行中の動議によって提起された懸案についての演説を本当に行っているのか、あるいは単に長い詩文を民族色豊かに朗唱しているだけなのかは確かめ難かった」という。「なかでもチェコ人党派たちは過剰で際限を知らぬ議事妨害で悪名を轟かせていた。<…>議会は観光名所として知られるようになり、とりわけ冬場は遊び好きなヴィーン子たちが暖房の聞いた傍聴席に群がるようになった」。
 「議員たちのおふざけを傍聴しに来ていたこうした人々の中に青年浮浪者ヒットラーがいた」、「彼は後年、若き日に議会制度に対して抱いていた敬意がこの経験によって『除去された』と主張している。」というような、著者の注記が付されている。これらのことが一つひとつその先の第二次大戦につながってゆくのである。

 国家の機能障害を示すかのごとき劇的な兆候は、オーストリア=ハンガリー帝国は瀕死の政治体制であり、<…>この帝国に批判的な同時代人たちは、戦争勃発前の数年間の、一体性を保たんとする帝国の努力が、ある意味で理に適わぬものだったのだとする議論を展開している。しかし実際には、オーストラリア=ハンガリーの政治的混乱の根は見た目ほどには深くなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)(120頁)/
 断続的な民族紛争はあったが、これが当時のロシア帝国や、あるいは20世紀の<北アイルランドの>ベルファストで経験された暴力の域に達することはついぞなかった。/これは慢性病の類いであって、死に至る病ではなった。/ある程度までは、異なる種類の政治的摩擦が互いを相殺し合っていた(121頁)
 ハプスブルグ諸邦は第一次大戦前の十年間に高度な経済成長の段階に入り(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、それに対応して全般な繁栄を迎えた/この点に関して<…>当時のオスマン帝国、そして崩壊しかけのもう1つの体制の典型である1980年代のロシアと対照的であったことは重要である(121~122頁)/
 民族の諸権利に対するかつてなく好意的な政策が<少なくともオーストリアでは>緩慢ではあるが明らかに進展していた。(123頁)/帝国の住民の大半はハプスブルグ帝国を、整然とした統治がもたらす恩恵、具体的にいえば公教育や福祉、公衆衛生、法の支配、そして精巧なインフラと結びつけて認識していた。ハプスブルグの政治体制のこうした特徴の多くは、君主国が消滅した後も記憶の中にぼんやりと(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)残り続けた(・・・・・)(124頁)

 小説家ローベルト・ムージルが、「特性のない男」の中で1920年代末の帝国の最後の平和を回顧する一文が本章に引用されている。

 君主国の息の長さと不変性は(・・・・・・・・・・・・・)皇帝フランツ・ヨーゼフの泰然自若たる頬髯の御姿に人格化されて(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)いた(・・)。/「素晴らしい、余は大いに満足した」──は、君主国の諸邦の誰もが知っている台詞であった。(126頁)/
 ヴィーンのジャーナリスト、カール・クラウスが気の利いた表現で語ったように、状況は常に「絶望的だったが深刻ではなかった」(128頁)
 バルカン地域は(・・・・・・・)他に行き場所を失ったオーストリア(・・・・・・・・・・・・・・・・)=ハンガリー外交が特別の関心を向ける場とな(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)った(・・)不幸にも(・・・・)この地政学的な範囲の縮小が起こった時期はたまたま(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)バルカン半島全体で一触即(・・・・・・・・・・・・)発の危機が増していた時期でもあった(・・・・・・・・・・・・・・・・・)(135頁 第2章「チェスの指し手たち」の節)

 第二次イタリア統一戦争、普墺戦争でのオーストリア=ハンガリー帝国の敗北、一方でオスマン帝国の南東ヨーロッパでの権能が衰微し、露(汎スラブ主義のイデオロギー)と、墺・洪(トルコに対抗するヨーロッパ側の守護者)の二つの強国が、戦略的関心からこのバルカンの地に緊張地帯をつくり出すことになったことを述べている。現在の東アジアの緊張関係とはやや力学構造が異なるか。

 同時に、野心的な新興のバルカン諸国家が(・・・・・・・・・・・・・・・)自分たちの独自の利害や目標の対立を抱えながら姿(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)を現しつつ(・・・・・)あった。/半島にうごめくもっと小さな獣たちをなだめすかし、飼い馴らす必要があった(136頁)/<セルビア国王ミランの>息子<のアレクサンダル>は、父親よりもはるかに常軌を逸していることが明らかに(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)なった(・・・)。アレクサンダルは自国に対するオーストラリア(・・・・・・・・・・・・・)ハンガリーの支援を過大に誇り(・・・・・・・・・・・・・・)、1899年に「セルビアの敵はオーストリア=ハンガリーの敵である」と口にしてはばからなかった。この失言にサンクトペテルブルグは目くじらを立て、ヴィーンは大いに困惑させられることになった。(137頁)/<一方で>精力的にロシアの支援を請い求めるようになった。<…>ハプスブルグ君主国は「セルビアの不倶戴天の敵だ」だとさえ公言している。(138頁)

 この外交力学の方は、より現代性を帯びている。かくしてヴィーンの政治家は、このセルビア王アレクサンダルの暗殺をそれほど残念には思わなかった、と著者は述べている。

 サンクトペテルブルグは実際に、──オーストリアとロシアのデタント、そして惨憺たる日本との戦争(・・・・・・・・・・)に費やした膨大な骨折りにもかかわらず(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)──バルカン同盟の創出を目指して(・・・・・・・・・・・・・・)行動していた。(140頁)
 オーストリア=ハンガリーのバルカン政策の厄介な特徴の一つは、国内問題と外交問題が深く結び(・・・・・・・・・・・・・・)ついていた(・・・・・)点であった。/帝国の国境の外側に(・・・・・・・・・)母国(・・)が独立して存在する小数派に関する事態に(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()()()内政と国際問題が絡み合う可能性が最も高かった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)(140頁)

 ルーマニア王国と墺・洪帝国内のトランシルヴァニア地域の300万人のルーマニア人との関係がその代表例であった。

 この章の後半は、ヴィーンの対セルビア計略にヴィーン側として登場する偏執狂的なまた人間的弱点をもつ三人の人物の動きを中心に記述が進む。フェルディナント皇太子(結局暗殺される)、コンラート参謀総長(愛人に執心してタカ派を演ずる)、ベルヒトルト外相(セルビアのパシッチに翻弄される)――内容は省略。

 <それよりも最大の問題はセルビアであり、墺洪帝国内の>ボスニア=ヘルツェゴビナの人口の実に40パーセントはセルビア人であり、南ハンガリーの<…>クロアチア=スラヴォニアにも<…>そうした地域が存在していた。(141頁)

 「分別のある」政府が指導的地位にあったとしても、「全能なる過激(ラジカル)なショービニストたち<排外主義者のこと>」が「冒険」に手を出すのを止められそうになかった<在ベオグラード公使館付き武官の報告>

 多くの主要人物たちが旧知の間柄であったという点は、1917年の7月危機の奇妙な特徴である。事態を左右するような駆け引きの水面下には、個人的な反感や積年の侮辱が潜んでいた(154頁)
 

(2017.7.23 記 2017.7.26 追記)