西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

1265号 第一次大戦前の日本(1)

2017年08月31日(木)

 現代のわれわれの眼から見るとき、日露戦争と第二次世界大戦(極東地域)は後者の厳しい歴史的事実の壁が立ちはだかって、全く独立した異種の二つの戦争として考えられてしまいがちである。しかし、両者の勃発の年代差は、ほぼ三十年つまり一世代の間隔にすぎない。かつ一連の国際紛争の継続という視点に立つならば、この二つの戦争の歴史的繋がりの関係も、より立体的な説明ができるのではないかと思える。 最近読んだA.J.P.テイラー著『第二次大戦の起源』、さらにC.クラークの『夢遊病者たち(第一次大戦はいかに始まったか)』――大部分はヨーロッパ中心に論じているものだが一部は極東と日本のことにもふれている――これらの書物を読むならば、いま述べたような連続と全体性という概念を深く抱かざるを得ない。
 第一次大戦直前のヨーロッパ列強は、互いに友好国と敵対国との真の関係の認識が不明瞭なまま、不幸な国際関係に陥ってしまった。敵と味方の意識が交錯をし、客観情勢の評価や相手の思惑に対する想像力も混乱をして、自国の存立と国益に目が曇らされて歪んでしまったのである。
 クラークの第一次大戦前夜に関する記述ぶりは、「帝国主義」とか「ナショナリズム」など一種の幻想の加わる方法論や観念的なカテゴリーを用いた方法論をとらない。したがって、敗戦をもとにした日本近代史によく見られるような、人道主義、侵略史観、植民地主義などステレオタイプの歴史解釈は前面には現れてこない。ヨーロッパを舞台にした列強(関連して日本の動きも登場する)の、国益をかけた衝突、外交上の駆け引き、戦争への脅しと回避の努力などをテーマに、君主のレベルからはじまり――とくに第一次大戦が君主国同士の世界規模(アメリカ大陸を除く)の争奪戦であったことにもよる――政治家、外交官、軍人など多層にわたる諸人物の言動を通して描写する。
 なお予めここで付記することにするが、第二次世界大戦においては、日本は地理的にも歴史的にもヨーロッパ中心の国際関係とは疎い立場の中で、列強に対して粘りの足らない単純な交渉に終始して、孤立的な行動をとった結果、誤った判断のもとに敗戦と責任を招いたと思われる。事後的にも戦争終結により新しく作り直されたイデオロギーに追い抜かれ取り残され、後遺症が未だに尾を引いているのではないだろうか。

 そこでまず、1902年(明治35年)の日英同盟――さらに1905年改定し、韓国の保護化を承認させる――に係わる部分の記述が『夢遊病者たち』の中に見えるので、第一次大戦直前のイギリス側から見た日本の位置づけ、またヨーロッパ世界に与えた影響を知るために以下に引用する。

 

 普仏戦争の講和直後(1871年)のディズレリーの下院での演説について――

 「<ディズレリー首相が普仏戦争について言う>『この戦争は、前世紀のフランス革命よりも重大な政治的事件、ドイツ革命を意味するもの』であった。彼はさらに、この戦争で一掃されなかった外交上の伝統は1つもないと付け加えた。曰く、『勢力均衡は完膚なきまでに破壊されたのであり、この変化に誰よりも苦しめられ最も影響を被るのはイギリスなのです。』と。」(218頁、3章ヨーロッパの分極化1887~1907年)
 「ディズレリーの言葉はしばしば、来るべきドイツとの闘争を予見したものとして語られてきた。しかし――1914年や1939年のレンズを通じてこの演説をそのように読みとると、彼の真意を誤解することになる。このイギリスの政治家にとって、普仏戦争後に何より問題だったのはドイツの勃興ではなく、イギリスの宿敵たるロシアがクリミア戦争(1853-56年)以降押し付けられてきた決定から解き放たれたことであった。」(同218-219頁)
 「この条約<1856年のパリ条約、黒海水域での軍艦航行の永続的禁止>の目的は、ロシアが東地中海を脅かしたり、インドへと至るイギリスの陸海路を途絶したりするのを阻止することにあった。しかし、1856年の条約の土台はフランスの敗北によって破壊された。新たなフランス共和国はクリミア戦争後の協定を破棄し、ロシアによる黒海の武装化に反対するのをやめた。イギリス1国のみでは、黒海条項を強要できないことを知っていたロシア<…>」(同219頁)
 「ディズレリーの演説は、1914年までのイギリス外交の中心を占め続けることになる主題を知らしめた。<…>イギリスの利害にとって『最も重大な、長期にわたる脅威』をもたらす存在はロシアであって、ドイツではなかった。当時のイギリスの政策決定者を煩わせた中国問題はその好例である。」(220頁)
 「バルカン半島でと同様、中国でも変革の潜在的な原動力は古風な帝国の力の後退にあった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。1890年代前半、中国北部へのロシアの勢力伸長が引き金となって、地域紛争が奔流のごとく頻発し、1894~95年の日清戦争で頂点に達した。この戦争に勝利した日本が(・・・・・・・・・・・・)中国北部への影響(・・・・・・・・)力をめぐってロシアのライバルとして登場する(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ことになった。一方、中国の敗北で、中国国家の衰退をさらに利用しようとする列強の権益争奪戦が開始された。さらに、中国をめぐる競争によって(・・・・・・・・・・・・)生じたネガティブなエネルギーは(・・・・・・・・・・・・・・・)ヨーロッパにおける緊張を高める(・・・・・・・・・・・・・・・)こととなった。」(220頁、傍点小生 以下同じ)
 「イギリスの見解からすれば、問題の核心はロシアの勢力と影響力の増大にあった。イギリスにとって中国は通商面でアフリカよりも潜在的にはるかに重要であったが、ロシアは中国でイギリスの権益に対して直接的な脅威をもたらしていた。<…>ロシア帝国の地理的な位置と圧倒的な軍事力を考慮に入れれば、東アジアでの同国の勢力伸長を食い止める方策は見出し難かった。新たなグレートゲーム<中央アジアでの英露の覇権抗争のこと>の幕が開け、ロシアが勝者になるかと思われた」(220-221頁)

 アフリカでのフランス、極東でのロシアの活動が反英的な政策を展開しているようにイギリスは考えたので、露仏同盟を特別な意味で危険視した。ポーア戦争への派兵によって北インドがイギリスにとって無防備状態になったことも背景になっている。

 「さらに悪いことに、ロシアの外交官は(イギリスからすると)敵意に満ち、拡張主義的で無慈悲であるばかりか、こそこそと不正な取引をしたがるきらいがあった。<…>インド総督ジョージ・カーゾンは1903年に、『ご存じのとおり、ロシア外交とは(・・・・・・・)長きにわたる(・・・・・・)そして多方面にわたる一(・・・・・・・・・・・)個の虚言(・・・・)なのです。』と、海軍大臣のセルボーン伯に語っている。」(221頁)

 この訳語の虚言が原文ではlieなのかfakehoodなのか、或いは違うのか、冷静かつ長い目でみるイギリス外交官の観察がそこに示されてる。

 「イギリスの政策決定者たちは二通りの政策でロシアの脅威に対応した。第一の政策は、日本およびフランスとの友好関係の構築を伴うものであり、第二の政策は、ロシア自体との勢力分配に関する合意締結を求めるというものであった<…>」(222頁)
 「<…>日露戦争の直後、イギリスと日本はロシアのさらなる拡大に抵抗することに共通の利害を有していた。イギリス外相キンバリーが1895年5月に東京駐在イギリス大使に送った書簡に記したところでは、日本はイギリスの極東における『当然の同盟国』であった。日本の手ごわい陸軍(・・・・・・・・・)()――1895(・・)年末には20万人の日本兵が満州に駐在していた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)――によって中国との国境でロシア(・・・・・・・・・・・・・・)を脅かせば(・・・・・)北インドという大英帝国の周辺部における脆弱さが相殺される(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)であろう。日本海軍(・・・・)の急速な成長は(・・・・・・・)さらなる(・・・・)ロシアとの釣り合いを取る重り(・・・・・・・・・・・・・・)を提供(・・・)してくれるし、そのことでイギリス海軍にかけられた極度の負担を軽減してくれるはずであった。」(同222頁)

 日英間で1901年にまず海軍の防衛協定が結ばれ、1902年1月にロンドンでより包括的な協約が締結された。1905年と1911年には条文を追加して協約が改定され、日英同盟は第一次大戦前の国際体制の一部となったと、記述されている。当時、新興国の日本は日英同盟に欣喜し、日露戦争の勝利につながるのだが、イギリス側はあくまで冷静である。

 「日本の力を借りてロシアとの均衡を保っていたのと同時期、イギリスの政策決定者たちは、帝国主義的な勢力分割に関する合意でサンクトペテルブルクを繋ぎ止めることで、ロシアの挑戦に対応しようと尽力していた。ここには何の矛盾もなかった。<…><トマス・サンダーソン卿・外相が在露イギリス大使宛ての1902年5月の手紙において述べているところでは>日本との同盟が有益なのは、『<ロシアが>気づかないうちは、我々が豚を他の市場にも連れていくことができるのだと彼らに思い知らせるまでもない』からに他ならなかった。かくして同盟は、『<イギリスが>何らかの明確な合意を得るためのチャンスを潰すよりは促進する』のに役立つはずであった。」(223頁)

 この箇所の喩え話の邦訳の意味はやや不明である。英仏協商(1904年)を成立させることにより、ロシアを牽制すると同時に、これと先の日英同盟によって、英露間の緊張緩和の合意の働きをさせるというイギリス特有の多面作戦を述べているのか。

 「<日露戦争の>開戦当初に<ロシアの>陸海軍が日本に対して満足に力を発揮できなかったという事実は、イギリスの不安を少しも和らげはしなかった。キッチナー伯爵は、もしロシアが(・・・・・・)インドを(・・・・)脅かすことで日本に対する敗北の帳尻合わせをしようという誘惑に駆られたらどうなる(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)だろうかと警告した。」(224頁)

 しかしこの懸念は、1905年のロシアに対する日本の勝利という結果によって、ロシアのインドに対する脅威は説得力を失い、1906年、グレイ外相はインドの軍備増強の予算を棚上げすることに成功する。

 「帝国主義的な再調整をめぐるこの錯綜した物語には、とくに強調すべき点が1つある。すなわち、イギリスの政策決定者たちにとって、フランスとの協商にせよ、ロシアとの協定にせよ、いづれも反ドイツを第一の目的とした方策ではなかったという点である。ドイツがイギリスの構想のなかで一定の役割を演じている限りは、おおよそのところ、ドイツの位置づけはフランス、ロシアとの緊張から付随的に生じるものにすぎなかった。ドイツ政府がイギリス政府の恨みや怒りを買ったのは、何より、仏露と一緒になって反イギリスの共同戦線を張るかのように思われた時であった。」(225頁)

 1895年の春、日本に対し日清戦争で獲得した遼東半島の返還を、ドイツが仏露とともに干渉し圧力をかけた時、またドイツが1897年に秘密裏にロシアから承認と後押しを受け、突如として山東半島・膠州に足がかりを得た時のことが、上記の例として挙げられている。

 「<1904年2月8日から9日にかけての夜、日本の>艦隊が中国沿岸の旅順に停泊していたロシア艦隊を攻撃して<…>これによって日露戦争の幕が切って落とされた。戦争を始めたのは日本であったが(・・・・・・・・・・・・・・・)戦争を引き起こしたのはロシアであった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。それまでの十年間に、ツアリーと彼に最も影響力を及ぼ(・・・・・・・・・・・・・・・)していた助言者たちは(・・・・・・・・・・)巨大な東アジア帝国を打ち立てるうという予想図にすっかり魅せられ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ていた。ロシアは中国北部や遼東半島(・・・・・・・・・・・・・)朝鮮北部に着実に進出し(・・・・・・・・・・・)日本の国益に関わる領域を脅か(・・・・・・・・・・・・・・)した(・・)。1898~1901年の義和団の乱(これ自体が部分的には、ロシアの中国への侵入の結果であった)を口実に、ロシアは自国の鉄道の防衛のためと称して17万7000人の兵力を満州に派遣した。反乱が沈静化した後も、ロシアは他の列強の撤兵要求を無視した。1903年前半には、彼らが満州を無期限に占領するつもりであることが明らかになった。満州と朝鮮それぞれにおける日露(・・・・・・・・・・・・・・・)の勢力圏の正式な確定を呼びかける日本の再三の要求は(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)サンクトペテルブルクでは軽くあしら(・・・・・・・・・・・・・・・・・)われた(・・・)。」(243-244頁)

 「扶清滅洋」をとなえた義和団事件には、ロシアがその責任の一担を負っているという考えである。これは、日清戦争後に欧米列強が華北に強引に進出してきたこと、特にロシアが日本に対する三国干渉を主導したこと、事件後もロシアが中国北部から撤兵しなかったことが、著者の記述に反映しているものと見える。

 「1902(・・)年の日英同盟の力を得て(・・・・・・・・・・・)日本には自分たちの手で事態に対応できるだけの自信が(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)あった(・・・)その後に訪れた戦争は(・・・・・・・・・・)誰もが予想しなかったほどにロシアの大敗に終った(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。三つのロシア艦隊のうち二つが壊滅状態に陥った」(244頁)
 「ロシア軍は1904年に満州で圧倒されて敗北し、日本は旅順を攻囲し、救援のために送り込まれた<ロシアの>軍隊は同地域からの退却を余儀なくされた。1905年1月、長きにわたる激戦の末に旅順が陥落した。二ヶ月後、二七万の日本軍が満州の奉天付近で自軍をわずかに上回る数のロシア軍を敗走させた。」(244頁)

 以上はオーストラリア生まれのケンブリッジ大学の著者による、日露戦争のドライな表現の描写である。

 

 「日露戦争の衝撃は深かったが(・・・・・・・・・・・・・)両義的でもあった(・・・・・・・・)短期的に見れば(・・・・・・・)戦争はドイツに(・・・・・・・)露仏同(・・・)盟と英仏協商から受けていた圧迫を脱け出す思いもよらぬ機会を提供(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)したように思われた。より(・・)長期的にはしかし(・・・・・・・・)、戦争には正反対の効果があった。すなわち(・・・・)日露戦争によって同盟システム(・・・・・・・・・・・・・・)は緊密化され(・・・・・・)かつては周辺部で展開されていた緊張関係が大陸ヨーロッパのなかにもちこま(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()ドイツから行動の自由を大幅に奪い去ったのである(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。二つの側面が1914年の諸事件に影響を及ぼした<…>」(244頁)

 

 ドイツ皇帝は、日露戦争によるロシアの敗戦をチャンスに、フランスが新しい英仏協商により(日英同盟との関係で)日本を支援したので、窮状しているロシアへの働きかけを行い、露仏同盟の弱体化をねらおうとした。カイザーとツアリーは、相互の安全保障の協定に同意したが、しかしロシア側の官僚によってこのドイツの東方政策はつぶされてしまう。一方、英仏協商によるイギリスのエジプト、フランスのモロッコ支配の相互合意について、ドイツは国際法にもとづき正当に異をとなえ、独仏間の交渉で解決しそうになった。しかし愚かにも、ドイツは国際会議でのさらに有利な決着をにねらったため、英・伊・西・露・土などフランスから買収された各国の反対にあって、無益のしくじりを演じてしまう。

 「自国の孤立を克服する手段として東西で可能性を試そうというドイツ政府の試行錯誤は、かくして大失敗に終った。」(250頁)
 「<各国の>ドイツとの反目がドイツを孤立させる原因となっていたのではなく、むしろ新たなシステムそのものがドイツ帝国に敵意を向かわせ、そしてこの敵意を強化していた。例えばロシアの場(・・・・・)()東方で日本が勝利し(・・・・・・・・・)中央アジアをめぐるイギリスとの帝国主義的角逐が暫定的に解消され(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)たことで(・・・・)必然的に(・・・・)唯一残っていた舞台に外交のスポットライトが再び当たることになった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。その舞台――オーストリア=ハンガリーとの紛争、そしてひいてはドイツとの紛争を回避することが困難になりつつあったバルカン(・・・・)――においては(・・・・・)ロシアはなおも帝国主義の幻影を追い求めること(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ができた(・・・・)。」(252頁)

 

 以下は、第一次大戦直前の日本に関連した記述とはやや離れたテーマである。

 「ドイツの経済力は(・・・・・・・・)ちょうどこんにちの中国の経済力のように(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)列強の指導者たちの不安を増(・・・・・・・・・・・・・)幅させた(・・・・)。もっとも、イギリスの外交において反独的態度が優勢となる必然性はなかった。」(261頁)
 「イギリスの外交政策は常に(・・・・・・・・・・・・)――20()世紀のアメリカの外交政策と同様(・・・・・・・・・・・・・・・)――脅威と侵略に焦点を(・・・・・・・・・)絞ったシナリオに従って展開されてきた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。19世紀半ばには、フランスによる侵略という恐怖が、政治エリートたちを定期的に刺激していた。しかし1890年代までには、フランスはイギリス政界や世論の想像上の世界においてロシアに席を譲り、コサックの大群がすぐにでもインドやエセックスに襲いかかるやも知れぬと思われるようになった。そしてついにドイツにお鉢が回ってきた。標的は新しくなったが、このメカニズムは相も変らぬものであった。」(263頁)

 イギリスの思考法は、勢力均衡(バランス・オブ・パワー)の現状をともかく維持しようとするバランサーとしての自己意識である。

 「顧みれば、1904~1907年の<英・仏・露間の>三国協商の成立という大変化が1914年の戦争を引き起こしたのだと、つい考えたくなる。<…>現在からすると、1914年の途方もなく巨大な結末がその前の10年間の見え方を規定しているように思われるのである。もっとも実際には、今日から見るとそう見えるというに過ぎない。つまり、顧みれば、ということである。」(263頁)
 「1904~07年の大いなる転換点は、大陸規模の戦争が実現可能となった構造(○○)の現出を説明するのには役立つ。しかし、これでは戦争が起った具体的な理由は説明できない。そのためには、政策決定の過程がいかにして政治的結果をかたちづくったのか、そして大陸の諸同盟の緩やかなネットワークがバルカン半島で展開した紛争とどのように組み合わさっていったかを考察する必要がある。」(264頁 ○○印は傍点として原文に付されている)

 

(2017.8.8 記)