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イッセイエッセイ

1265号 第一次大戦前の日本(2)

2017年08月31日(木)

 以下の記述は、ヨーロッパ各国の国内状況や報道事情である。
<第4章>「喧々囂々(けんけんごうごう)のヨーロッパ外交」<上巻の最終章のタイトルである>

 「個人に擬された諸国家はヨーロッパ政治戯画の記号の一部であるが、そこには根深い思考の慣行が映し出されてもいる。すなわち、国家を、1つの不可分の意志に生命を吹き込まれた小規模な執行機関により統治される、個人の合成物として概念化する傾向を。しかし、20世紀初頭のヨーロッパ諸国の政府をごく大雑把に観察しただけでも、諸々の政策を生み出す執行機関の構造(・・・・・・・・・・・・・・)()一体性を持っていると言うには程遠かった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)のは明らかである。」
 「政策の決定は単一の主権保持者の特権ではなかった。国家の政治的進路に係わるイニシアチブが政治構造のまったく周辺的な場所から発する可能性があったし、実際にそういうことが起っていた。党派的な提案、政府部局間の摩擦、経済的、財政的な制約、世論の気まぐれな化学作用といったことのすべてが、政策決定の過程に変転極まりなき圧力を及ぼした。政策決定の権力が執行機関構造のあるところから別のところへと移り変る際には、これと一致した変化が政治上の風潮や進路のなかにも生じた。相争う主張が生み出すこうした混沌は(・・・・・・・・・・・・・・・・・)戦前の数年間のヨー(・・・・・・・・・)ロッパ体制に周期的に訪れた動揺を理解するうえで決定的に重要である(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)またこれは(・・・・・)なぜ(・・)1914(・・)年の七月危機が現代の政治的危機のなかでも最も複雑で不明瞭なものになったかを説明するう(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)えでも役に立つ(・・・・・・・)。」(266頁)
 「<最高意思決定者たち、つまり皇帝、君主について・・・>ニコライ二世は当時なお、ロシアの未来はシベリアや極東にあると固く信じており、東方政策の提唱者たちが反対者たちに対して優位を占めるように取り計らった。当初は幾分か懸念を抱いていたものの、彼は1898年に遼東半島の旅順に中国への進出の足掛かりを確保する政策に支持を与えた。韓国についてもニコライがロシアの勢力拡大政策を支持したことは、サンクトペテルブルクを東京との対立に導くところとなった。」(276頁)
 「アレクセーエフ極東提督<材木王ベゾラーゾフ一派から支持をうけ、アルクサンドル二世の愛人の息子>は、外交の(・・・)形式に関して何の経験も見識もなく(・・・・・・・・・・・・・・・・)不快で非妥協的なやり方を示して(・・・・・・・・・・・・・・・)当然のごとく日本側の(・・・・・・・・・・)離反と怒りを招いた(・・・・・・・・・)ニコライ二世が果たして対日戦争政策を意図的に選んだのかどうかは疑わ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)しいが(・・・)彼が(・・)1904(・・)年に始まった戦争の(・・・・・・・・・)したがってまたその後に起った惨事についての最大の責(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)任を負っているのは確実である(・・・・・・・・・・・・・・)。」(277頁)

 この部分は日露戦争の責任の問題のところである。

 

 「帝国を統べる三人の従兄弟のなかでは、<ドイツの>ヴィルヘルム二世が最も論議を呼ぶ存在であったし、今なおそうあり続けている。<…>あるときには彼は、『外務省だと?それがどうした、余が外務省だ!』と豪語した<…>ニコライ二世のように、ヴィルヘルムはしばしば――とくに政治の初期には――責任を担う大臣たちを迂回して、『お気に入りたち』に相談事をしたり、政府の一体性を掘り崩すために派閥争いを煽り、所管の大臣の承認を得ていない見解や、主流の政策に合致しない意見を口にした。<…>電報、手紙、端書き、対話、インタビュー、演説といった、()交や内政を主題とした皇帝の私的コミュニケーションの多くが奇矯な調子を帯び(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)奇矯な内容で(・・・・・・)あったことは疑いようもない(・・・・・・・・・・・・・)。それらの異常な量だけでも注目に値する。」(279~280頁)
 「大陸の君主たちが積極的に政策決定の過程に干渉したのであろうとなかろうと、まさに彼らの(・・・)存在そのものが(・・・・・・・)国際関係において不安定要素であり続けた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。あらゆる国家の文書や人事へのアクセスと、あらゆる最高意思決定の究極的な責任とを伴う、各国の意思決定の中心点であると(・・・・・・・・・・・・・・・)一般に見なされていた君主は(・・・・・・・・・・・・・)部分的にのみ民主化された体制のなかの存在として(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)両義性を(・・・・)生み出した(・・・・・)。」(287-288頁)
 「大臣や官僚、軍司令官、政策の専門家たちは、自分には議論の中で言い分を述べる資格が与えられているが、政策の結果に個人的な責任はないと考えるようになっていった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。同時に、君主の望みを叶えねばならぬという足の引っ張り合いやへつらいの雰囲気を助長し、もっとバランス(・・・・・・・)のとれた政策への取り組みを可能とするような(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)部局を超越した何らかの協議がもたれるのを妨(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)げた(・・)かくして生じたのが(・・・・・・・・・)派閥主義と過剰なレトリックとを好む文化であり(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)これが(・・・)1914(・・)年七月に(・・・・)危険な果実を実らせることになる(・・・・・・・・・・・・・・・)。」(289頁)
 「イギリスが示す様相はかなり異なっている。<…>外務大臣エドワード・グレイ卿には、望まざる君主の干渉を恐れる必要はなかった。ジョージ5世は国際問題に関して外務大臣の采配を仰ぐことにすっかり満足していた。そしてグレイはさらに、首相のハーバード・アスキスからの惜しみない援助を享受していた。彼は、フランスの同僚たちとは違い、自分が長を務める外務省のなかで度を逸するほどの大きな力を手に入れた官僚と争う必要はなかった。<…>グレイは間違いな(・・・・・・・・)()第一次世界大戦以前のヨーロッパにおいても最も権力のある外務大臣であった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(310頁)
 「しかし、グレイの強大な権力と一貫した見解をもってしても(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ヨーロッパ各国の行政府に特有の(・・・・・・・・・・・・・・・)動揺からイギリスの政策決定を完全に守ることはできなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)グレイ一派が選択した反ドイツ的(・・・・・・・・・・・・・・・)立場は(・・・)外務省の外では広範な支持を得られなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。<…><グレイの属する自由党の名声ある急進派の人物たちは>ロシアを宥めることで得られる利がドイツ帝国との友誼がもたらす潜在的な恩恵に勝るのか、疑問を抱いていた。<…>さらに問題なのがイギリスの世論(・・・・・・・・・・・・)とりわけ文化的(・・・・・・・)政治的エ(・・・・)リートたちの論調であった(・・・・・・・・・・・・)。<…>イギリスのエリートたちの間では(・・・・・・・・・・・・・・・)ドイツに対する敵意は多重(・・・・・・・・・・・・)的な文化的結びつきや(・・・・・・・・・・)かの国の文化(・・・・・・)経済(・・)科学の成果に対する賛嘆と併存していたので(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)あった(・・・)。」(314頁)
 「かくして英仏外交は(・・・・・)――イギリスの側では(・・・・・・・・)――一種の最高次の二重思考を特徴とする(・・・・・・・・・・・・・・・・・)ことになった。」(328頁)

 英仏は秘密裡には相互の安全保障関係を約束していたが、公の場では、互いに拘束されず自由な行動がとれると言明していた。

 

 次に、メディアと政治との関係を以下に抜く。

 「疑問の余地のない点が一つある。すなわち第一次世界大戦勃発前の数十年間には政治的な公論の劇的な拡大や、国際関係に関連した問題についてこれまでになく広範な公的議論が確認されるという点である。」(347頁)

 「20()世紀初頭のヨーロッパの要人のなかに(・・・・・・・・・・・・・・・・・)外交政策を決定するにあたって新聞の重要性を認(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)めていなかった人物を見つけ出すのは難しい(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。しかし、彼らは新聞に押し流されていたのだろうか。」(349頁)
 「ほとんどの政策決定者は新聞について、賢明かつ分別ある見方をしていた。彼らは、新聞報道は――短期間のアジテーションやすぐに鎮まる熱狂に陥りやすく――移ろいやすいと思っていた。彼らは、世情は相容れない衝動に引きづられていること、そして政府に対するその要求は滅多に現実化しないことを理解していた。」(350頁)
 「攻撃的な超民族主義の組織について言えば、ヨーロッパのあらゆる首都で彼らの声を耳にすることができたが、その大半は小規模で極端な集団を代弁していたにすぎなかった。指導部が内部闘争や分裂で弱体化するのは、大抵の好戦的な超民族主義の団体の決定的特徴であった。」(351頁)
 「1903-14年のヨーロッパでは、現実は『国際的な』モデルが示唆するものよりもっと複雑であった。君主の混沌に満ちた干渉(・・・・・・・・・・・)文民と軍隊の曖昧な関係(・・・・・・・・・・・)そして大臣や内閣の一体性の弱さを(・・・・・・・・・・・・・・・・)特徴とする体制内部における重要政治家たちの敵対関係が(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)安全保障をめぐる断続的危機や緊(・・・・・・・・・・・・・・・)張の高まりを背景にした批判的な大衆新聞のアジテーションによって深刻の度合いをさらに深め(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)つつ(・・)この時代の国際関係にかつてない不安定さをもたらしていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。政策が揺らぎがちで、そこから発せられる信号に様々な情報が混じっていたために、歴史家のみならず大戦勃発直前の時期(・・・・・・・・・・・・・・・・・)の政治家たちにとっても(・・・・・・・・・・・)国際状況をみ取るのは至難の業になっていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(367頁 第4章の最終節「権力の流動性」)

(2017.8.8 記)