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イッセイエッセイ

1266号 開戦時の露・独・仏・英

2017年08月31日(木)

 「夢遊病者たち」の著者クラークは、ロシア皇帝を巡る記述のところで、第一次大戦時の各国の君主・皇帝(フランスだけが共和国であった)の果たした役割や意味について観察している。

 ニコライ二世が総動員をいったん裁可した直後に三従兄の独・ウィルヘルム一世からの緊急電報を受けて突然取り止め、又一日後に動員令を元に戻した混乱などに関して、世界史の命運が彼らの手に握られていたかのように理解するのは誤っていると述べる。

 「君主たちは、やりとりされた信号の発生機と言うよりも、送信機であったものの、彼らの存在が反映していたのはヨーロッパの意思決定者たちの君主的構造であって、君主たちの政策決定力ではなか(・・・・・・・・・・・・・・)った(・・)。<…>ツァーリが政策決定過程における支配的なプレイヤーだったからではなく、彼の裁可(そして署名)が総動員に必要だったためにすべてが彼の決定に懸っているという、今回ばかりはとても特別な瞬間に<ヴィリー=ニッキー電報として知られるようになった>届いた。そして問題となっていたのは政治的影響力それ自体などではなく、専制体制の軍事絶対主義の残滓であった。<…>その効果は一日ともたなかった。両君主がただ、根本的に相対立するそれぞれの執行部の立場を代弁していたのに過ぎなかったためである。」(763頁 傍点小生 以下同じ)
 「ロシアの総動員は、七月危機の諸決定の中でも重大なものの1つであった。これは最初の総動員であり、ドイツ政府が、7月26日以降に現実化したロシアの戦争準備期間に対応する戦争切迫情態宣言をまだ発令してすらいなかった時点のものであった。オーストリア=ハンガリーはと言えば、セルビア侵攻に狙いを絞った一部動員になおも釘づけになっていた。」(757頁)

 後にロシアやフランスでは「出来事の時間的順序」の問題に「困惑が広がる」こととなった。各国は第一次大戦後に、危機の間の自国の行動の正統性を主張するための外交文書集を刊行した。たとえば、ロシアのオレンジブックの編集者は、オーストリアの総動員令の日付に関し、駐墺ロシア大使から本国への電報の日付を三日間以前に遡らせ、しかも総動員が「予期」というのを「署名」とするなど改変させた。同様にフランスのイエローブックも公式刊行物に「冒険的に手を加えて」いる。(757-758頁)
 ロシア外相サゾーノフが、7月30日の段階で総動員令を皇帝(ニコライ二世)から得た理由、①一部動員について適切な計画を持っておらず、後に総動員に繋げることが技術的に困難だったこと、②セルビアに対し非妥協的なオーストリア政府の背後で、ドイツが糸をひいているという外相の深読的な確信、③セルビアとオーストリアについての配備状況の不確かな諜報による過大評価をし、「今度は自国の、総動員をオーストリアの構造と同等だと見なし、そうやって自己正当化するという、簡単には理解しがたいロシアの傾向」など。総じて「この危機におけるほとんどすべての他の国々と同様に、ロシアもまた、自分たちは追い詰められていると主張できたのであった。」(758-766頁)

 

 ドイツのウィルヘルム一世に関しても類似の行動があったこと(776頁)
 ドイツは局地的政策にしがみついていた。ロシアの介入を招かずオーストリアがセルビア攻略を成功できるとなお信じていた。またセルビアに対するオーストリアの言い分の正しさを本気で信じていた。理由としてはロシアの軍備計画が不十分とみていたこと、露仏協商も動きそうにないと観測していた。
 こうして「オーストリア=ハンガリーへの支援、そして局地化の可能性の慢心を通じて、ドイツの指導者たちは危機が拡大するのに一役買った。彼らが危機を隣国に予防戦争を仕掛けるという積年の計画に着手するための歓迎すべき好機だと見なしていたことを示すものは何もない。対照的に、ティンマーマン、ヤーゴ、そしてベートマン<順にドイツの外務次官、外務長官、宰相>は自分たちの周囲に広がる厄災の規模を把握するにあたり、ひどく緩慢であった。」(771頁)
 「もしロシアが他のすべてを犠牲にしてでも自らが庇護する者の側に立って事態に介入しようと決意するのだとしたら、その結果に生じる戦争はドイツの制御の超えたものであり、それは攻撃的なロシアと協商国のせいで中欧両大国<フランスとロシアのことか>に訪れる運命なのだという<ベートマンの>信念も、局地化戦略の基盤となっていた――そして他の選択の出現を妨げていた。」(770-771頁)

 外務長官フォン・ヤーゴの駐英大使リヒノフスキー侯爵あて私信(7月12日)には「私は予防戦争に望みをかけているが、いざ戦争が起ったらひるむべきではない」とある。この「予防戦争」という用語は最近は耳にしないが、自国に脅威を与えている理由で相手国に仕掛ける戦争のことである。

 「ここにまたもや、平和と戦争のいずれかを決定する責任をしっかり敵対者に負わせつつ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)自らは否(・・・・)応ない対外的な制約の下で行動しているのだと感じるという(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)この危機の当時者たちの大半が用いた(・・・・・・・・・・・・・・・・・)論法をはっきりと見て取ることができる(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(771頁)
 「七月の最期の日々<本章のタイトル、カール・クラウスの戯曲『人類最期の日々』を意識か>、ドイツ皇帝の注意はイギリスに注がれ続けていた。その理由の一端は、彼も多くのドイツ人と同様に(・・・・・・・・・・・)イギリスは大陸システム(・・・・・・・・・・・)の支点となる国家であり(・・・・・・・・・・・)大規模な戦争を回避できるかどうかはこの国にかかっていると見ていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ためであった。ウィルヘルムは大陸外交におけるイギリスの比重を過大視していた点、そして鍵を握る(・・・・)政策決定者(・・・・・)とくにグレイ外相(・・・・・・・・)が既に特定の方向へ強く傾斜していることを過小評価していた点で(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)大勢と変わりなかった(・・・・・・・・・・)。しかし、心理的な側面も確実にあった(・・・・・・・・・・・・・)すなわちウィルヘルムが称賛と承認(・・・・・・・・・・・・・・・・)愛情を必死で求めた(・・・・・・・・・)――しかしたまにしかそれらを得られなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)――国であった(・・・・・)。かの国は、彼が賛美したものの多く――現代科学が築きうる最良の火砲と装備を備えた海軍、富、洗練、世慣れた如才なさ、そして彼が称賛しつつも見習うのは無理だと思った(少なくとも彼がイギリス滞在中に出会った集団の)ある種の貴族的な落ち着いた物腰――を体現していた。かの国は亡くなった祖母<ヴィクトリア女王>の故郷であり、<皇帝が後年述べたところによれば>彼女が生きていれば、ニッキーやジョージ<露ニコライ二世、英ジョージ五世のこと、互いに親族であり、こう呼びあった>らが徒党を組んで自分にこんな風に立ち向かってくるのを決して許さなかったであろう。<…>ヴィルヘルムがイギリスの政策を解釈しようとする際には、感情と関係のもつれが常に作用した。」(783-784頁)

 ヴィルヘルム二世が抱くイギリスへの片思いと落胆は、以上のようなクラークの筆致から明らかなのであるが、列強の権力闘争におけるバランス・オブ・パワー理論をもとに国際政治学者モーゲンソーは、次のように力学を定式化しており参考になる(「国際政治(中)」 原彬久・訳 岩波文庫2013年)
 「天秤についての比喩を用いれば、このシステムは、二つの秤皿から成り立っているといえようし、いずれの秤皿においても、一国、あるいは同じ現状維持政策または帝国主義政策によって提携している諸国家が見られるはずである。<…>しかしこのシステムは(・・・・・・・)二つ(・・)の秤皿に第三の要素(・・・・・・・・・)――バランスの(・・・・・)保持者(・・・)あるいは(・・・・)バランサー(・・・・・)」――を加えて成り立っている場合もあろう(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。<…>こうしてバランスの保持者はつねにその勢力を、他方より高いように見える秤皿――なぜなら、その秤皿の方がより軽いからである――におく。」(同書70頁)
 「バランサーは歴史の比較的短い期間のうちに(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)次々と主要列強の友となったり敵となったりするであろう(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。バーマストン<ヴィクトリア朝中期の外相・首相、アヘン戦争、クリミア戦争を主導>の言葉をいいかえると、バランスの保持者は永久の友人を持たないし(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)永久の(・・・)敵ももたない(・・・・・・)彼はただバランス(・・・・・・・・)オブ(・・)パワーそれ自体の維持に永久の関心を持つ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)のである。バランサーは、「光栄ある孤立の地位にある。それは自らの選択によって孤立している。」(同頁)
 「近代の際立ったバランサーであるイギリスは次のように言われてきた。イギリスは自国の戦争を他国に戦わせ(・・・・・・・・・・・・・・・・・)大陸を支配するため(・・・・・・・・・)にヨーロッパを分離させ(・・・・・・・・・・・)しかもその政策が変りやすいためにイギリスと同盟することは不可能なくらいであると(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。「不実のアルビオン<ブリテン島の古名>」という言葉は、いかに熱心に努力してもイギリスの支持を獲得できなかったものや、あるいは、あまりに高い代価と思われるものを支払ったあげくその支持を失ったもののいずれかが口にする常套句となった。」(72頁)

 

 ここでまた本文に戻り、ドイツとイギリスの土壇場のぎりぎりの折衝を描く箇所をやや前後を抜きにして見よう。上記の大英帝国のバランサーの面目躍如かと思える部分である。
 「その後、8月1日土曜日の午後五時を少し回った頃、衝撃的な知らせが届いた。ベルリンが総動員を発したほんの数分後に、ロンドンのリヒノフスキー<大使>からその日の朝のイギリス外相とのやり取りについて述べた電報が届いたのである。グレイ<外相>は、ドイツがフランスへの攻撃をやめるのなら戦争から身を引くというだけでなく、フランスの中立を保証すると申し出ているように思われた。」(786頁)
 「ロンドンからのメッセージは、皇帝と参謀総長<モルトケ>の議論の場を作り出した。<…>ヴィルヘルムは、さしあたり動員を停止することはできないが、英仏の中立の約束を得る代わりに、フランスに対する動員をやめたいという見解をとった。ベートマンやティルピッツ<提督、帝国海軍長官>、ヤーゴの支持を得て彼は、イギリスの申し出の本心を明らかにするような更なるメッセージがロンドンから届くまでは、これ以上の部隊の移動を行わないよう指示した。しかしヴィルヘルムやベートマンが西方での戦争を避ける機会を得たがっていたのに対して、モルトケ<参謀総長>は、いったん動き始めた総動員は止められないという見解を示した」
 「ある観察者は回想している。『モルトケはとても興奮し、唇を震わせながら自らの立場を主張した。カイザーと宰相をはじめとする人たちは彼に嘆願したが、どうにもならなかった』。ドイツが動員中のフランスに背中を晒すのは自殺行為に等しいと、モルトケは論じた。」
 「<皇帝がルクセンブルグ国境で止まるような指令を送った…>モルトケはほとんどヒステリー状態に陥った。<…>陸相ファルケン<上述の観察者とはこの人物>との私的な会話で、参謀総長は『自分は完全な敗者だ、カイザーによるこの決定は彼がまだ平和を望んでいることをはっきりさせたのだから』と、涙ながらに打ち明けた。」(788頁)

 西部国境のルクセンブルクの国境侵犯が現時点で可能かについて皇帝に問われ、モルトケはやむなく、現地司令部では停止が可能と主張したことを受けての返答だったという副官ムーランの目撃回想がある。これによって皇帝が判断したらしいのだが、この返答がモルトケにトラウマを与えたという。(本書の注による)

 

 「<後続の電報が届いた後も、モルトケは従前の主張を行ったが>ヴィルヘルムは聞く耳をもたなかった。『貴君の名高い伯父<大モルトケ参謀総長1857-88年を指す>なら余にそんな答えをしなかっただろう。余が命令を出せば、それが現実のものとならねばならぬのだぞ』。ヴィルヘルムはシャンパンを持ってくるように命じた。」
 「モルトケは地団太を踏みながら妻に、自分は敵と戦う準備がすっかりできているが、『カイザーのような奴』と一緒にではないと語った。<この部分はモンバウアーの伝記によるものであり、ドイツ語訳からは除かれているという>モルトケの妻が信じたところでは、このやり合いのストレスのせいで、参謀総長は軽い卒中に襲われた。」(786頁)
 その後、ロンドンではグレイ外相と<独>リヒノフスキー大使の面会が行われた。
 「ドイツ大使を驚かせたことに、グレイはイギリス、あるいはフランスの中立を提案しなかっただけでなく、他の閣僚にこの問題を持ち出さなかったようであった。『どちらか<フランスかドイツ>によって、ベルギーの中立が侵犯されたとしたら、イギリスの世論を抑え込むのは極めて難しいでしょう』と、グレイは警告した。リヒノフスキーは質問を返して、外務大臣にさかねじを食らわせた。もしドイツがベルギー領を侵犯しないことに同意した場合、グレイにはイギリスの中立についての保証を与える準備があるか、と。<…>イギリスがフリーハンドを保たなければいけなかったために、彼はそうした保証を何も与えられないと言い切らざるを得なかった。別の言い方をすれば、グレイはかつての提案から後退したように見えた。同時に彼は、フランスに事前に相談せずに提案を作成したことを――おそらくはうっかり――明らかにした。」
 「平然とした明け透けさでリヒノフスキーはこう書いている。『イギリスの提案が全くないので、<…>ゆえにさらなる措置はとりませんでした。』」(791頁)
 「待機命令に落胆し涙を流して参謀本部本営にいたモルトケに、救いの兆しが現れた。<…>モルトケは宮廷に戻り、最新の電報の伝えるところを耳に入れるよう指示を受けた。彼が到着するとイギリスの立場のおおよそのところを示す、自らが受け取った電報を参謀総長に見せながらヴィルヘルムは言った。『ついに貴公はお望みのことをできるぞ』。」(791-792頁)
 「グレイは何をしようとしていたのか。」(792頁)

 グレイ外相の矛盾した、どっちつかず振りの対処の原因とみられる点を著者は以下のようにあげる。
(1)その時はドイツに、イギリスの中立の見込みを本気で提示していた(?)
(2)フランス支持の介入を閣僚たちが支持してくれるか自信がなかったので、ドイツから約束をえておけば中立の梃子に使えるという思惑。
(3)中立には関心がなかったが、イギリスの大陸派遣部隊のための時間を稼げとの圧力をかけられていた(?)
(4)7月末の国際金融市場の不安な様相から躊躇した(?)

 これまた大英帝国のバランサー的振る舞いが、外務大臣の冷静にみえるドタバタぶりに個人的に表れているということかもしれぬ。

 国際政治のことを論じた先のモーゲンソーは、バランス・オブ・パワーに関して、冷戦時代に至って『バランサーの消滅』したことを論じ、50年代後半にフランスのドゴールが唱えた『第三勢力』については、そういうものは今やありえず無駄なことだとして、第二次大戦前の三世紀にわたりなぜイギリスがバランサーとして成功できたのかの理由を説く(「国際政治(中)」379頁~)
 「イギリスがバランスの『保持者』としての役割を果たしたのは、権力資源を持っていたことのほかに、<…>三つの点で大陸の政治から超然とすることができたためである」(同書385頁)。
 ドゴール将軍の見解は、次のような決定的な事実を見落している。すなわち、イギリスが平和と安定のために有益な貢献をすることができたのは、何よりもまず、イギリスが摩擦と紛争の中心から地理的に離れていた(・・・・・・・・・)ためであり、次には、イギリスがそのような紛争に対して重要な利害関係をもっていなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・)ためであり、そして最後に、権力闘争をしているおもだった国々には概して手のとどかない海外地(・・・・・・・・・・)域において(・・・・・)イギリスが力への欲望を満たす機会(・・・・・・・・・・・・・・・・)<現在では「植民地フロンティアの消滅」が生じている>を持っていた(・・・・・・)ためである。」(384-385頁)
 もっとも、イギリスが重要な利害関係をもっていなかった、というのはどうか。

 

 「1つだけ確実なことがある。この数日間、グレイは極度のプレッシャーの下で働いていた。彼はますます眠れなくなった。内閣が自分の介入主義的な政策を支持してくれるのか、支持してくれるとしてそれはいつのことなのか、彼には知る術がなかった。彼は異なる方面で様々な同僚たちから圧力をかけられたが、そこには(閣僚の大半をなおもコントロールしていた)自身の政府メンバーのなかで介入主義に反対する人々や、野党の保守党に属する干渉主義の支持者もいた。」(794頁)

 

 最後にフランスとイギリスとの折衝の様子について。
 「<在英フランス大使ポール・カンポンの>苦境の根本をなしていたのは、英仏協商の歴史に深く根差した視点の食い違いであった。カンポンはいつも期待まじりに、イギリスはフランスと同様に協商を、ドイツとの均衡を保ちドイツを抑制するための手段と見ていると推測していた。イギリスの政策決定者たちにとっ(・・・・・・・・・・・・・・・)て協商はより複雑な目的を追求するためのものであった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ということを、彼は見落していたのであった。協商は何より、大英帝国のばらばらの領土に害をなすのに最適の場所を占める国家、すなわちロシアによる脅威を逸らすための手段であった。カンポンの誤解の理由の1つに考えられるのは、外務次官のアーサー・ニコルソン卿の保証と序言への過信である。ニコルソンは露仏の繋がりに執着しており、両国が同盟関係を完全な物へと強化していくのを熱心に注視していた。<…>ニコルソンは実力者ではあったがロンドンの政策の決定者ではなかったし、彼の見解はグレイ周辺の人々の見解とますます一致しなくなっていった。<…>この事例は(・・・・・)最も情報を得ていた同時代人であっても(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)同盟国や(・・・・)敵対国の意図を読み取るのがいかに難しかったのかを典型的に示している(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(799-800頁)

 

 なおこのニコルソン卿は、1914年5月初めには、「外務省に入省して以来、こんな静穏にはお目にかかったことがない」と述懐していた(第6章最後のチャンス――緊張緩和と危機1912-14の冒頭の一文(477頁))。
 「軍拡に弾みがつき、文武双方の指導者たちがますます軍国主義にのめり込んでいった当時にあってなお、ヨーロッパの国際体制は全体として、驚くべき危機管理とデタントの能力を誇っていたのである。」(477頁)と筆者は言う。この外務次官は、ドイツに譲歩するとロシアを敵に回すことになり、ロシアの好意はイギリスの安全保障に欠かせないと信じていた人物である。(485頁)

 「8月1日の朝の閣議の後、グレイはひどく取り乱したカンポン<駐英フランス大使>に、内閣は断固としてあらゆる介入に反対していると説明した。こんな知らせはパリに伝えられない、自分としては何の決定もなされなかったと述べるだけだ、とカンポンは抗議した。<…>『イギリスには我々を援助し、少なくとも艦隊の支援を与えてくれるという道義的義務はないのでしょうか。我々が海軍を他所に動かしたのは貴国の助言のせいなのだから』と、彼は訴えた。<…>カンポンは顔面蒼白で、ほとんど泣き出さんばかりにしてこの話し合いを去った。グレイの執務室の隣の大使の控室によろめきながら入り、彼はニコルソンによって椅子に座らされながら、こうつぶやいた。『彼らは我々を捨てようとしている。彼らは我々を捨てようとしている。』」(802頁)

 あちこちの二国間で愁嘆場が演じられた。カンポン仏大使は、フランスはロシアが攻撃を受けた場合には助けるよう義務づけられているのだと、グレイ英外相に泣きつくよりなかったのである。(799頁)

 そしてしかしながら事態の推移は、いよいよイギリスが大陸に干渉することになる。
 「カンポンが思っていたほど分は悪くなかった。」(803頁)のである。「<…>感情は高揚していた。見捨てられるのではというカンポンの恐れ、そして自分の政策に確固たる支持を調達する時間的余裕が与えられる前に中枢から引きずり出されてしまうのではというグレイの恐れはこの状況の基本的な現実に対する誤解へと繋がるような過度の発言や極端さを生み出した。(803頁)
 以下の推移は――7月29日、内閣はチャーチル海軍大臣に艦隊の予備動員の要求を認める/8月1日チャーチルが内閣の承認を得ることなく(しかしアスキス首相の暗黙の承認で)艦隊を動員する/野党の保守党は介入のためのロビー活動を開始/「ザ・タイムズ」などトーリ系の新聞は、介入に好意的な意見を表明し始める/ウィルソン陸軍作戦部長が、保守党指導部に対しイギリスはフランスを見捨てるという危機にあると警告/カンポンは保守党ロイド・ジョージに対し、行動しない責任を保守党に押し付けていると示唆し、ロイドは否定し、ロビーを総動員することを約束する/保守党の指導者グループの一団から「野党は介入を支持するであろうと宣言し、そしてイギリスの中立の決定は国の名声を損なうだけでなく国家の安全を害することになると警告する手紙が、アスキスに送られた。」――(804頁)
 「しかしながら、決定的な争いが行われたのは内閣においてであった。そこでの意見は、なおも介入に頑強に反対していた。大多数がフランスとの協商に疑念を抱き、ロシアとの協定をひどく敵視していた。<…>反介入主義者たちはロンドンの金融界と商業界の支持を得ていると主張した。<…>8月1日朝の閣議は、見解の両極化と明確化をもたらした。<…>内閣は、イギリスの派遣部隊を大陸に即時には派兵しないこととした――この決定は、グレイやほかの自由帝国主義者からの反対を受けなかった(この決定が、ポール・カンポンを絶望に追い込んだのであった。)」(805頁)
 「それにもかかわらず、翌日――8月2日、日曜日――の日暮れには、イギリス政府は介入に向けて決定的な段階へと歩を進めた。<…>グレイは、もしドイツの艦隊がフランスの海上交通を途絶させたり、あるいはフランスの沿岸を攻撃するために北海を航行するかイギリス海峡に侵入したら、イギリス艦隊は完全なる保護を与えるだろうとフランス大使に伝えることを認められた。」(805頁)
 「かくも劇的な逆転はいかに可能となったのであろうか。この問題に答えるにあたっては、まずもって、介入主義者のグループが巧みに議論の枠組みを設定したことが特筆に値する。」(806頁)
 「ハーバート・サミエル<郵政長官、子爵>は、<…>第一にドイツのフランス沿岸への砲撃、第二にベルギー中立の重大な侵犯という二つの公式を、イギリスの軍事的応酬の引き金となりうる条件として設定することで、議論の枠組みをつくるのに一役買った。この二つの提案が発揮した魅力の一端は(・・・・・・・・・・・・・)()れらが(・・・)過ちの原因(・・・・・)となりうるのは(・・・・・・・)、『我々の行動ではなくドイツの行動(・・・・・・・・・・・・・・・)によってなのだということを(・・・・・・・・・・・・・)保証するように考案されていた点(・・・・・・・・・・・・・・・)にあった。グレイは8月2日の朝の閣議で万感の思いを込めて、イギリスは迫りくる紛争においてフランスを支援する道義的義務があると宣言し<…>」(806頁)

 「7月の最期の日々、ベルギーもフランスもイギリス内閣にそれほど大きな影響を及ぼさなかったという事実から窺えるのは、議論の微妙なニュアンスを読み取り、決定の理由と(・・・・・・)それを喧伝し正当化す(・・・・・・・・・・)るために選ばれた議論とを区別する必要性である(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。<…>大臣たちのうちの躊躇していた人々にとって、中立から介入への移行に際して、別の要素も触媒作用を果たしたのは間違いない。」(808頁)

 戦争によってアイルランド自治法の無期限延期できると野党の保守党が考えていた。

 

 「端的に言えば、1914年にイギリスの主要な意思決定者たちは、大陸主義か帝国かという選択肢のいずれかを選ばざるをえなかったわけではなかった。ロシアとドイツのどちらを主たる脅威とみなそうと、結果は一緒であった。なんとなれば、イギリスが協商の側に立って介入すれば(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ロシアを宥めすか(・・・・・・・・)し繋ぎ止める為の手段と(・・・・・・・・・・・)ドイツに敵対し牽制するための手段の両方が得られたからである(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。1914年の条件の下で、グローバルな安全保障という理論と大陸における安全保障という理論は(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)独墺に抵抗(・・・・・)して協商国を支持するというイギリスの決定に収斂していた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(811頁)

 最終段階でのドイツの中立国・ベルギーへの侵入に係わる外交技術的問題、これは極東において起こった真珠湾攻撃を考える際に類似のテーマを提供すると見える。ドイツの基本戦略は、西部で最初にそして最も強力な一撃を見舞い西方の敵を粉砕してから、東部に転じて敵(ロシア)に対峙することになっていた。
 「1905年以来、西部での軍事的勝利は中立国のルクセンブルクとベルギーを通過してフランスを攻撃することのみで可能だと、ドイツの作戦立案者たちは思い込んでいた。」(812頁)

 

(2017.8.8 記)