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イッセイエッセイ

1267号 「夢遊病者たち」──戦争の精神について

2017年09月04日(月)

 戦争にはどういう精神が必要なのであり、また必要でないのであろうか。――
 「夢遊病者たち」の著者・クラークは、第一次大戦のまさに直前の危機におけるドイツの計画立案者たちの大半の「戦略的、政治的想像力の欠如」の例として、次の二つを挙げる。
 第一に「ベルギーの中立侵犯がドイツの外交の自由に及ぼすであろう政治的衝撃に驚くほど無関心であった」こと。(812頁)
 第二に「ドイツ軍部は(フランス軍部やドイツの文民の○○○指導者たちとは対照的に)イギリスの介入をあまり重視しておらず<…>ここに軍事的な意味を見出していなかった」こと。(812頁 傍丸は原文では傍点、以下同じ)

 「8月1日にドイツの軍事動員の瞬間が迫った時、ベルリンの政策立案者たちはさらに二つのひどい(・・・・・・・・・)失態(・・)を演じた<…>ベルギーが要塞化されたリエージュとその周辺地域の防衛措置を完了すれば、ドイツの侵攻は食い止められて莫大な死傷者が出るため、中立侵犯の遅滞は問題外だとモルトケは主張した。この即時行動の主張は政治的には問題を孕んでいた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(813頁 傍点小生、以下同じ)
 「8月2日のベルギー政府への最後通牒の提出は(・・・・・・・・)もう1つの破壊的な過ちであった(・・・・・・・・・・・・・・・)。ベルギーの中立侵犯という決断と迅速さとがどうしても必要である点を考えれば、(ドイツの見解からすれば)何もせ(・・・)ずにベルギー領に侵入して横断し(・・・・・・・・・・・・・・・)責任者が自らの行為を詫び(・・・・・・・・・・・・)後から賠償によって既成事実として(・・・・・・・・・・・・・・・・)処理した方がましだったであろう(・・・・・・・・・・・・・・・)これこそが(・・・・・)イギリス政府がドイツに対して予想していたことであっ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()。そしてアスキス内閣の大臣たちは――チャーチルを含め――<…>ドイツ軍のベルギー通過〇〇を開戦事由と必ずしもみなさないという見解を、繰り返し表明していた。」(814頁)
 「すべてがドイツにとってひどく悪い方向へと進み始めた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)モルトケがただベルギー南部を突き進ん(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)でいれば(・・・・)軍事的な便宜上からの逸脱行為で済ませられたかもしれない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。しかし通牒はベルギー政(・・・・・・・・)府に(・・)予期された行動に対する原則的見解を予め明言するよう強いた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」
 「ドイツの最後通牒は『ひどい心理的失策』であったことが明らかになった。このことは戦時プロパガンダに鳴り響き、戦争原因の複雑さを見えづらくし、協商国に揺るぎなき道義的優越感を付与したのである。」(816頁)
 「ベルギーでは愛国的感情が爆発した。<…>反教権的な自由主義者や社会主義者から教権主義的なカトリック派に至るまでのあらゆる党派が(・・・・・・・)断固として侵略者から祖国と自分たちの国民的名誉(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)を守ることを誓った(・・・・・・・・・)。」(816頁)

 ドイツ外交の愚直さと臨機応変のなさが、返ってベルギーはもとより国際的にも反発を呼び、かつフランスに対する短期電撃決戦に失敗し、その結果前線において双方に多大の人損と戦況の停滞を生ぜしめることになった。


 本書には最後(12章「最期の日々」の次)に、訳者のあとがきによれば著者クラークが「やや大胆に自らの史観を吐露している」『結論』が付されている。
 「単独で責任を負う国家を告発したり、あるいはそれぞれが分かち持つ戦争勃発への責任に応じて諸国家を格付けする必要が本当にあるのだろうか。<…>むしろ責任論を中心に据えた説明が問題なのは、ある集団に間違って責任を帰するかもしれないという点ではなく、責任問題の周辺に作られた説明が先入観に基づく推測に伴う点である。」(830頁)

 幅広い支持を得ている本書に対しては、多くの批判、とくにドイツの歴史家たちから、資料の用い方の偏向への指摘、また本書が注目と評価を得ているのはドイツの戦争責任を回避したがる読者の支持にすぎぬなどの厳しい意見もあるようだとして、訳者・小原淳(和歌山大准教授)は「日本語圏での議論の喚起に幾分なりとも役立つことを願ってやまない」とあとがきに結ぶ。


 「1914年の登場人物たちは夢遊病者たちであった。彼らは用心深かったが何も見ようとせず、夢に取り憑かれており、自分たちが今まさに世界にもたらそうとしている恐怖の現実に対してなおも盲目だったのである。」(834頁の最後の一文)
 この下巻の第5章(バルカンの混迷)、第6章(最後のチャンス)、第7章(サライェヴォの殺人)、第8章(広がる輪)、第9章(サンクトペテルブルクのフランス人)、第10章(最後通牒)、第11章(威嚇射撃)は次の機会に読むべきこと。 

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 さて、戻って第6章の中に「男らしさの危機?」という目につく小題を持つ箇所がある。
 「1914年の春と初夏にヨーロッパ各国の官界を構成していた人々を考察する場合、彼らの個性の不(・・・・・・・)幸な特質に何の感慨も抱かずに済ますのは不可能である(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(542頁)
 「登場人物たちが互いをよく知りながら(・・・・・・・・・・)互いにほとんど好意を抱いていなかった有様は(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、ハロルド・ピンター<現代英国の不条理演劇作家、詩人>の演劇さながらである。」(543頁)
 「重要人物たちが再三にわたり男っぽい態度をあてつけがましくアピールし(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)そうしたことが彼らの政(・・・・・・・・・・・)策理解と緊密に絡み合っていた様は印象的である(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(543頁)
 「世紀末風の男らしさの呪文はこの時代の書簡や覚書のいたるところに姿を現しており、その影響を一定の部分に特定するのは難しい。とはいえ、そこには間違いなく、ヨーロッパの男らしさの歴史のなかの極めて特殊な瞬間が反映されている。ジェンダー史研究者は、19世紀から20世紀へと移り変わる数十年間に、(食や性、商品への)欲求の充足が中心を占めていた相対的に拡張したかたちの家父長的アイデンティティが、よりスリムかつハードで禁欲的なあり方を求める方向に変化(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)していったことを指摘している。同時に、――例えばプロレタリアートや非白人といった――従属的で周縁的な(・・・・・・・・)()()()()から挑戦を突きつけられた(・・・・・・・・・・・・)ことで、エリートたちの中で『真の男らしさ』をめぐる表現が目立つようになった。なかんずく軍事指導者たちの集団の間では、スタミナやタフさ(・・・・・・・・)義務や(・・・)惜しみない奉仕が(・・・・・・・・)()や柔弱と感じられるようになっていた古くさい社会的出自の高さの強調にとって代わっていった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(544頁)

 一方で彼らの男らしさと拮抗して、緊張や消耗の徴し――感情の過度の起伏、強迫観念、精神過労、優柔不断、心身症、現実逃避、孤独、女性からの救けの渇求、などが心理的に混在する危機的状況があったと書く(545-546頁)

  「この物語の登場人物たちをより広範なジェンダー史の中に位置づければ、先代の政治家たち(ビスマルクやカヴール、ソールズベリ)に典型的に示されていた、しなやかさや戦略的な柔軟性そして狡猾さよりも、不屈の力強さを優先することに基づく行動規範こそが、戦争に向かう可能性を強める一因となったことは明らかではなかろうか。」(546頁)

(2017.8.27 記)

 日本の第二次大戦はどうであったか。

 ちょうど昨日から日本経済新聞「私の履歴書」は音楽評論家・湯川れい子さんが執筆をはじめている。その第一回には父・忠一のこと、米澤藩士が父祖にもち、昭和11年(1936年)に私が駒沢で生まれたとき海軍大佐であったということが書いてある。そしてミッドウェー海戦の翌1943年4月の春のある夜の出来事として、次のような回想がある。
 「遅くなって帰宅した父を母と姉が玄関に迎えた。しかし父は靴も脱がず、背を丸めがちに血を吐くようにつぶやいた。『五十六いそろくが死んだ。日本はもう終わりだ』」。(第1回2017.9.1)
 また本日の第2回を読むと、父と山本五十六元帥とは義理のいとこの関係にあったことがわかる。私的な場では五十六と「親しみを込めて呼んでいた。また戦争を何んとかしてくれるのではないかと期待を抱いていた。」ということである。その父も1年後、激務の中で急性肺炎により急死する。葬儀の際に、弔問の陸軍少将が庭に父が育てていたスミレを「この非常にこんなものを植えおって」と軍靴で踏みにじる場面がある。

(2017.9.2 追記)