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イッセイエッセイ

1268号 「夢遊病者たち」──亡き人たち

2017年09月03日(日)

 『夢遊病者たち』には沢山の人たちが有名、無名を問わず登場する。すべて百年前に生きた亡き人たちである。かつて生きていたその重要な瞬間においてもすでに亡きがごとき人たちであったことを著者は本書の題名で暗示している。
 「夢遊病者たち」下巻の第12章「最期の日々」には、第一次大戦の開戦に至る直前における列強の関係者すなわち皇帝・国王、閣僚(首相、外相など)、外交官、軍事責任者の国内における闘争、相手国との神経戦の状況が生々しく描写される。しかしその中で、人物として事態を冷静に判断し、意志堅固にして一貫して、国策を推進していく人たちは、ほとんど誰処にも登場しない(軍人などにはやや例外がある)。

 (イギリス)H.H.アスキス自由党首相――「アルスターで起きている珍事」に対し全面的に意識が向いていた。「若い友人にして愛人であった優雅で知的な社交界の花形」のヴェニーシャへの私信において「セルビアに横暴で侮辱的な最後通牒」を送ったことについて「セルビアはおそらく受諾できないだろう」、「幸運にも我々は見物人と言う役割をやめる理由はなさそうだ」と書いている。
 外相エドワード・グレイ卿――「七月中の諸列強のロンドン大使との会談では、相も変わらず率直な物言いを避けて、曲がりくねった言い方をした」、「当時の彼は個人的な関心事で頭が一杯…視力が低下していた…スカッシュの試合の間、ボールを追いかけるのが次第に難しくなって…もはや自分のお気に入りの星を夜空に見つけ出せなくなって…田舎でもっと時間を過ごす算段をしており…しかし…アスキスとは対照的に…南東欧で起ころうとしている危機の深刻さにすぐ気がついた…」
 陸軍作戦部長ヘンリー・ウィルソン――「『酔っ払いスキフ』(彼はアスキスをこう呼んだ)や『下品な内閣』への軽蔑を次第に隠そうとはしなくなった。彼は尻込みすることなく自治法問題<北アイルランドのアルスター地域への自由党の権限移譲案と自治法に反対する保守党の動き、武装闘争となるおそれの問題>をゆすりに用い、ユニオニストの要求に応じるよう首相に求めた。」(728~731頁)
 (フランス)シーモン・ポアンカレ大統領――首相や蔵相なども経験のある対独強硬派のこの人物だけが、勇気と判断力をもっているように書かれている。「彼は明快さを愛し、特筆すべき一貫性をもって自らの目標を追求した」(448頁)。「ヴィヴィアニ首相がますます悩み、不安がっており、この上なく矛盾した考えに取り憑かれている」のに気付く。彼に対して「弱さは、いつも厄介事の母であり」、分別のある唯一の方針は「持続的に断固たる姿勢」を示すことだと説明する…首相は「何一つ理路整然と話せない有様」。「ポアンカレも緊張を感じていた」、「とくに悩まされたのは、エドワード・グレイ卿の様々な声明<…>混乱に満ちたほとんど理解不可能な<…>一連の無線電報<…>であった。」(746頁)

 露仏同盟でフランスの軍事介入(とくにドイツに関連して)が容易に改定されたのは、「第一次大戦前の最も重要な政策変更の一つ」であった(第5章407頁)、とされるが、これはポアンカレが外相兼首相に就いた直後からである。「ポアンカレの心中を占めていたドイツの脅威に対する本能的な不安は、強力な要因の一つであった。1870年に、生まれ故郷のロレーヌをドイツ軍が蹂躙し、一家で避難を余儀なくされた時、彼は十歳であった。フランスが賠償金を支払い終わるまでの間、ふるさとのパル=ル=デェクは三年にわたりドイツ軍に占領されていた。こうした経験にもかかわらず、ポアンカレはブーランジェ風<元陸相ブーランジェが保守勢力に支持されて1889年政権奪取をねらった>の復讐主義者とはならなかったが、ドイツに対する深い不信の念は抱きつづけた。」(447-448頁)

 
 フランスの民衆の様子をここに抜く。
 「何より雄弁なのは、ポアンカレの日記の中の、<スウェーデン訪問から>パリへの帰路の途上で彼を出迎えようと集まってきた群衆についての描写である。これは、既に戦争状態にある政治指導者の精神状態を示している。

―すぐに我々は、人々の士気が大いに高まっていることに気がついた。とくに労働者や港湾労務者たちはそうだった。夥しい数の大衆が波止場や埠頭に集り、フランス万歳、ポアンカレ万歳の叫びを繰り返して我々を歓迎した。感情を抑え、市長や上院議員、下院議員たちと二、三、言葉を交わした。彼らは全員、この国の団結と決意を信頼してよいのだと話し、知事もそう断言してくれた<1914.7.29付日記>。」(749頁)

 その直前の記述において、
 「ルノー<閣僚か>は、休暇中の兵士は招集され、訓練中の部隊は駐屯地に戻り、知事は警戒態勢をとり、公務員は自分の持ち場につくよう指示され、主要な補給品はパリによって購入済みだとポアンカレに伝えた<…>ダンケルクから首都に向う車中、ルノーが列強間の政治的和解がまだ可能かを尋ねると、ポアンカレはこう答えた。『いや、無理だ。取り決めは無理だ。』」(同頁)

 しかしこうした群衆の反応は、一応ではなく様々であって、この箇所からずっと後述の宣戦布告直後の様子が幾つか描写されている(「軍靴」という節)。また指導者たちの姿もある。

 
 その中から幾つか抜き出す。開戦決定による悲嘆と空喜びが描かれている。
 「総動員と最後通牒、宣戦布告という結果をもって本書に述べてきたストーリーは結末に近づいた。」(817頁)
 「外交の季節は終りに近づき、兵士と水兵の季節が始まった。」(818頁) 

 「8月1日、土曜日のサンクトペテルブルクでのサゾーノフ<ロシア外相>との最後の会合の間、大使<在露ドイツ大使・伯爵>のプルタレスは『何を言っているのか分からない言葉』をぶつぶつとつぶやき、とどめなく涙を流し、どもりながら『そうだ、これが私の使命の結末だ!』と言い、部屋から走り去った。」(818頁)
 「8月2日にアスキスを訪問したリヒノフスキ候<駐英ドイツ大使>は、首相が「ひどく衰弱し」、涙が「頬をつたう」のを目にした。(同頁)

 そうでない人たちもいた。


  「至るところで晴れやかな顔ばかりで、廊下で握手しており、ある者は障害が取り除かれたことを喜んでいる」(ドイツ陸軍省で)、「フランスから見れば有利な戦略的状況を活用する機会を得たことへの<…>あからさまな喜びを報告している(7月30日・在仏ロシア大使館武官イグナチェフ大佐(伯爵)からみたフランス同僚の様子)
 「海軍大臣のウィンストン・チャーチルは、戦いが迫っているという思いに元気になった。『すべてが破局と崩壊に向っている』と、彼は妻に7月28日に書いている。『私は心躍り、準備万端で、そして幸せだ。』」

 チャーチルは有事の際の国家指導者であり政治家である。下って1945年第二次大戦がイギリスの勝利で終結すると、その年7月の総選挙で合理的思考のイギリス国民は、予期に反してチャーチルではなく労働党のアトリーを首相に選んだ。

 「陽気なアレクサンドル・クリヴォシェイン<ロシア農業省長官、織物産業家>が、ドゥーマ<帝政ロシアの国会>の代表団に、ドイツは直ぐに粉砕され、戦争はロシアに『恩恵』をもたらすことになると保証した。『我々を信じたまえ、諸君、何から何まで素晴らしいことになる。』」(以上、同頁)

 しかし、ヨーロッパ「列強」はどの国も弱体化しており、戦争による「恩恵」はロシアの場合はボルシェビキの革命であったし、「素晴らしいことになる」とはロマノフ朝と貴族たちの滅亡であった、とは本書では書いていない。大きな戦争は、歴史の回転を速める役割を果たすということである。古き良きもの(と一応言っておく)が、永遠にしかも見事に素速く消え失せて行ったということである。

 
 ところで、このクリヴォシェインなるロシアの人物は、本書には早く登場しており(この下巻の冒頭 第5章バルカンの混迷、「1912-13年の冬におけるバルカン危機」の節 411頁~)、本書では人物伝風に特別に記述がさかれている。
 やや時間と頁数が逆戻りするが、このあたりを参考に幾つか抜記する。
 「1912~13年の冬におけるバルカンの危機<セルビア・墺・露間の緊張、そして墺が先に国境から手を引き鎮静化した>は去り、誰もが胸をなでおろした<サラエボ事件は後の14年6月末のことである>。しかし、ヴィーンとサンクトペテルブルクの政治的輪郭はこの危機によって持続的に変化(・・・・・・・・・・・・・・)していった。オーストリアの政策決定者たち(・・・・・・・・・・・・・・)()これまでよりも軍事的な外交スタイルに慣れていった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(411頁 傍点小生 以下同じ)
 「サンクトペテルブルクではロシアの戦争党が台頭した(・・・・・・・・・・・・)。そのメンバーのなかでも最もタカ派的だったのが、ともに高位の軍司令官で、モンテネグロの王女と結婚していたニコライ・ニコラエヴィチ大公とピョートル・ニコラエヴィチ大公であった。駐露ベルギー大使は、『皇帝の平和主義では、もう二度とオーストリアの前から後ずさりできないと声高に叫んでいる。宮廷の連中をちっとも黙らせることはできません』と、1913年の初頭に書いている。好戦的な見解が地歩を得たのは(・・・・・・・・・・・・・・)ツアリー(・・・・)断続的にではあった(・・・・・・・・・)()や陸海軍の高位の指揮官たちだけではなく(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)影響力を有する文民の大臣の一派からも支持を得(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)たから(・・・)であり、そうした人々の中でも一番重要な存在が、農業大臣のアレクサンドル・クリヴォシェインであった。」(同頁)

 軍事的な外交スタイルに慣れてゆくという政治的風土の描写は、意味深長であり、現代においても参考にしなければならない。戦争党についても。戦争党が武官から文民の高官までもに移行しはじめる時、時局が転換するという歴史的事例か。

 

 「クリヴォシェインは、ロシア政界において最も活動的で興味深い人物の一人であった。<…>政治的人脈を築く才能があり、知的で洗練され、洞察力に満ち、良き友を作るうえでの神通力を有していた。<…>有力な大臣の息子たちと昵懇となるすべをもって知られ、<…>ツアリーの秘書トレポフを中心とするサークルにもぐりこんだ。<…>1906年には公的な地位になかったにもかかわらず<…>既に君主の引見を受けていた<…>モローゾフ家の娘と結婚したことで巨万の富を誇り、<…>モスクワの産業エリートたちと親密な間柄を得た<…>」(411-412頁)
 「クリヴォシェインの政策は、若い頃のロシア領ポーランドでの経験によってかたちづくられていた。<…>ワルシャワで生まれ育った<…>この地域は民族主義的なロシア官僚を数多く輩出<…>彼らの思考は常に、いつの間にか民族の尊厳に向っていた<…>自分と同じ階級のロシア人たちの大半と違い、ドイツ語もロシア語も流暢に話せなかったため、外国人と付き合うのは苦手であった<…>。

 当時のヨーロッパ圏の各国における首脳や交渉当事者の言語使用の能力の一般的レベルを覗わせる。日本が日露戦役前後から具体的な国際関係に入り込んで行ったのだが、少なくとも外交官たちがどの程度の微妙さ精確さで情報をやりとりできたのか。こうした言語理解の程度は大事に影響を与えたのではないかと推測する。

 
 「政治の世界で頭角を現した彼は、政府の活動のなかでも最も名高きこの分野<外交政策の分野のこと>で影響力を発揮したいという欲望を抱くようになった。<…>かくして彼はロシア極東地域と中国領内の満州との境界にまつわる安全保障問題に積極的に関心を示すようになった。東方に目が向いていた政治家の大方の例にもれず、クリヴォシェインはドイツと友好な関係を維持することを好んだ。<…>しかしながら1914年夏の前の数年間、クリヴォシェインは変化していた。強力な師であったストルイピン<首相、1911年9月暗殺される>は死んだ。<…>1912~13年の冬の危機の間、独はスホチリーノフ<陸相>の積極的なバルカン政策を支持した。その理由は、『ドイツに媚びへつらうのをやめ』、その代わりにロシアの民衆と彼らの長年の祖国愛を信じる時が到来したからであった。<…>露独間の原稿の関税協定の修正声高に叫ぶキャンペーンを指揮し<…>社会と政府の紐帯をつくり上げるような問題を(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)探し出すのに執心し(・・・・・・・・・)<…>端的に言えば、クリヴォシェインはテクノクラートのモダニズムとポピュリズム、農業セクト主義、議会の権威、そして国外問題に対するいや増すタカ派的見解の恐るべき合成物を体現していた。1913年には、彼は間違いなく最も広い人脈をもつ、最も強力な文民の大臣になっていた」(412~415頁から、中略を加え抜すい)

 クリヴォシェイン農業大臣は反墺・反独の立場で1914年7月末の大臣 議会の主導権をとり、大戦に直結する軍事動員に一役演じることになった。陽気なクリヴォシェインの、その後についての記述はないが、数年後起こった革命後のロシアから無傷で逃げのびたとはどうしても考えられない。

 

 さて元に再び戻り、民衆の様子。政策決定の指導者から離れて、では一般民衆はどういう行動をとったか。
 「戦争の知らせが一般の人々が示した反応は、政策決定の権限は民衆の声に握られているという、政治家が何度も口にしてきた主張が嘘であったことを露見させた。確かに従軍の呼びかけに対する抵抗はなかった。ほとんどとこでも男たちは多かれ少なかれ自ら進んで招集地に向かった。この従軍への心構えの根本にあったのは戦争に対する熱狂といたものではなく、防衛的な愛国心であった。この(・・)戦いの原因論が複雑怪奇であったため(・・・・・・・・・・・・・・・・・)交戦状態にあるすべての国の兵士や民間人たちは(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)自分た(・・・)ちの戦争は防衛戦争であり(・・・・・・・・・・・・)、自分たちの国は強硬な決意を固めた敵から攻撃を受けるか挑発されるかしており、自分たちの政府は平和を維持するためにあらゆる努力を払ってきたのだと確信すること(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ができた(・・・・)。巨大な同盟ブロックが戦争の準備をする中で、大災害の導火線となった出来事の複雑な連鎖はあっという間に視界から消えていった。『数日前にはセルビアがこの事件の中で大役を演じていたことを誰も覚えていないようだ。セルビアは背景に消えたかのように見える。』<ベルギー駐在アメリカ外交官・ギブソンの8月2日の日記から>(819-820頁)
 「<カザフ高原のコサック集落でツアリーの動員命令がきたとき、イギリスの旅行者が見た光景>独特な軍事的職業意識と伝統を持つコサックたちは『敵との戦いに燃えたった』。しかし、誰がその敵だったのか(・・・・・・・・・・)それは誰にも分(・・・・・・・)からなかった(・・・・・・)。<…>噂が飛び交っていた。当初は(・・・)誰もが戦争は中国とのものに違いないと想像(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)した――『ロシアがあんまりモンゴルの奥まで進出したもんだから、中国が宣戦布告しやがったんだ』。そしてまた別の噂が広がった。『イギリスとの戦争だ、イギリスとの』。この見方はしばらく優勢であった。ようやく4日後に真実らしきことが我々の元に届いたが(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)誰もそれを信じなかった(・・・・・・・・・・・)。」(812頁、第12章最期の日々の末尾)

 どこの国でも都市の中心部から離れるほど、動員の知らせは一般人の人々にとっては死ぬか傷つくかであり、戦争についての意味をもたなくなり、不安と驚き、茫然自失を生じさせた。遠くアルタイ山麓のコサック分の反応は例外的であり、世離れをしている。「西部戦線異状なし」という映画を昔見たときの情景の記憶がぼんやりとあるのだが、雰囲気は通じるものがある。

(2017.8.16 記)