西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

1269号 力の原理の支配

2017年09月09日(土)

 「夢遊病者たち」下巻冒頭の第5章「バルカンの混迷」(371~475頁)は1912年から13年にかけての第一次、第二次バルカン戦争期のバルカン各小国の危険にみちた互いの挑発や領土争い、これに係わる列強の介入と思惑を扱っていて、「しっちゃかめっちゃかのバルカン」「仏露同盟のバルカン化」など9つの小題から構成されている。さまざま今日の話題に関係するようなエピソードが書かれてある。
 「<イタリアは、リビリア占領を急ぐあまり、これがバルカンでのオーストリアの勢力拡大につながることを忘却する。このジュリアーノ伊外相の、ともかく放っておくとオスマン帝国が海軍力を強化してしまうという主張は>勢力バランスという事実よりも、時間に対する閉所恐怖症のごときものに基づいていたのであり、この時代のヨーロッパの多くの政治家たちが用いた論法には、彼らにも同様の意識が働いていたことを確認できるのである――すなわち、時間がな(・・・・)くなりつつあるという意識(・・・・・・・・・・・・)利点が消滅し脅威が増大する状況では(・・・・・・・・・・・・・・・・・)遅滞は必ず手ひどい仕返しを受(・・・・・・・・・・・・・・)けるという意識が(・・・・・・・・)。」(379頁)
 「<バルカン諸国に対する扇動者と平和維持者の二つの役割を同時に演じるロシア外交について>即興主義(・・・・)そしてはなはだ(・・・・・・・)しい優柔不断は(・・・・・・・)第一次バルカン戦争中のサゾーノフ(・・・・・・・・・・・・・・・・)<露外相>の政策のトレードマークになってい(・・・・・・・・・・・・・・・・)()。」(405頁)
 「ブルガリアは歴史的にはサンクトペテルブルクの従属国であった。しかし、ソフィアは決してロシアが望んだような従属的な衛星国にはならなかった。親露派と「西欧派」<親独派のこと>という両政治党派が外交上の主導権を競い合い(実際のところ、今日なおそうである)、指導者たちはある国から別の国へと忠誠を誓う相手を変えることで、この国の戦略的に抜き差しならない地理的位置<ロシアの航海権を左右するトルコ領の二海峡に肉迫している立地条件>を利用してきた。」(415頁)
 「バルカンの正教徒の『子供たち』のために行動するというロシアの主張は、オーストリア=ハンガリーの弱体化と国内における支持の確保、トルコ両海峡の後背地となるバルカン地域での覇権の確立といった自らの政策構想を、ポピュリズム的な手段で正当化したものに他ならなかった。汎スラヴ主義の表明は、ロシアの民族主義的な新聞では人気を博したかもしれないが、政治的な行動綱領としては、ヒトラーの『生存圏レーベンスラウム』構想と同程度の正当性しかなかった。」(425頁)

 バルカン半島は、かつての分布図の位置に今日でも十ヵ国の小国が日本の面積の二倍、人口は半分ほどの勢力でひしめいている。

 
 「バルカン同盟諸国が予期せぬ速さで勝利したことで、オーストリア=ハンガリーは絡み合った一群の問題に直面することとなった。<…>トルコをこの地域を左右する強制力として常に維持し続けなければならないというヴィーンの公理は今や無意味となった。直ちに即興的な措置をとる必要があった。<…>セルビアがアドリア海沿岸へと国境線を押し広げることは何としても許してはならなかった。その背景には、セルビアの港がやがて外国(すなわちロシアの)支配下にはいるかもしれないという懸念があった。」(428-429頁)

 世界史の教科書は次のように解説する――ロシアは、オーストリアのバルカン半島への進出に対抗してバルカン同盟に結束させて(セルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシア)、イタリア・トルコ戦争に乗じてオスマン帝国に宣戦して勝利した(第一次バルカン戦争)。その直後に、獲得した領土をめぐって、ブルガリアと他の同盟国の間で内戦になった(第二次)。

 
 「セルビアのヴィーンとの付き合い方は、厄介な印象を残すことにもなった。つまり、巧言令色で繕った悪辣な丁重さの裏には、挑発と不服従を注意深く盛り込んだ政策が隠されているといった印象を、である。ここにはただ利益のみならず政治のスタイルをめぐる衝突があった。ベオグラードはヴィーンが圧力をかけてくる限りにおいて後退し、その結果もたらされる恥辱を粛々と甘受するのであって、これに対してオーストリアが圧力を緩めると、詮索と挑発がまたぞろ繰り返されるのだと思われた。結局(・・)のところ(・・・・)セルビアが理解するのは力だけだという見方が公理のごとく重みを増していった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(437-438頁)

 従属国の面従腹背の卑屈な外交姿勢が、結局のところ宗主国の実力行使でしか強制できないという風潮を生んだことを書いている。

 「オーストリア=ハンガリーにしてみると、二度のバルカン戦争はすべてを変えた。<…>ヴィーンがどれほど孤立しているか、そしてバルカンの諸事件についてのヴィーンの見解が、各国の外交機関からいかにわずかな理解しか得られていないのかを白日の下に晒した。<…>西欧列強は伝統的にオーストリアを中欧と東欧における安定の支柱と見なし、ゆえにいかなる犠牲を払っても保持されねばならない国家と見なしてきた。しかし1913年には、この原理はもはやそれほど強制力を示さなくなった。この原理は(・・・・・)ヨーロッパをそれぞれの国家が何らかの役割を果たす大陸の地政学的な生態系として(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)よりも(・・・)同盟ブロックという見地から考える傾向(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)――この傾向は(・・・・・)1907(・・)年以降(・・・)協商国(・・・)<露、仏、英のこと>の間で急速に浸透していった(・・・・・・・・・・・・・)――によって土台から揺さぶられていった(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。<…>イギリスやフランスにおける政治的ルポタージュの多くに込められていた反オーストリア意識によって、オーストリア=ハンガリーを時代錯誤で命脈の尽きつつある存在、あるいはセルビアの新聞の表現では(この呼び方がより一般的に用いられたオスマン帝国に続く)『ヨーロッパの第二の重病人』といする見方が広まったことで、この傾向は強まった。とりわけ不安を抱かせたのは、ドイツの支援が本質的に不熱心だったことであった。」(438-439頁)

 本書では、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世の奇妙であきれた言動について、「ドン・キホーテもかくやのこうした思いつきに、疲弊したヴィーンの政策決定者たちが心休まることはほとんどなかった。」(440頁)と書いている。

 
 「最後通牒がセルビア軍のアルバニアからの撤退の実現に成功したこと自体は、より軍国主義的な(・・・・・・・・)流儀の外交がその正当性を立証した例(・・・・・・・・・・・・・・・・・)と見なされた。この軍国主義的態度の強まりと表裏一体の関係にあったのは、経済的な制約によってオーストリア=ハンガリーの戦略的な選択肢がいかに制限され始めているのかという点に対する認識の高まりであった。バルカン戦争の危機の際の一部動員は、君主国に莫大な財政負担を課した。<…>君主国の経済が景気後退を迎えつつあった時期にあって、これは深刻な問題であった。<………>純粋に戦略的な動員という中間的な選択肢がなけれ(・・・・・・・・・・・)()政策決定過程は必然的に柔軟性を失い(・・・・・・・・・・・・・・・・・)平和か戦争かの二者択一を余儀なくされた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)であろう。」(443-445頁)

 老君主国が、継続的に戦争の準備態勢にあることを示す余裕も失われていたことを言っている。

 
 第五章中の「露仏同盟のバルカン化」の項目について、以下のとおり。
 「<ポアンカレが>重要な役職に就いた背景には、歴史家が『国家主義者の復興』と呼んできた、アガディール事件<1906年ドイツが砲艦を同地に派遣してフランスを牽制した第二次モロッコ事件、イギリスの介入で失敗>以降のフランスの政策の傾向の転換があった。共和主義者の政治家たちはドレフェス事件<1899年、ユダヤ系軍人ドレフェスを独スパイとして無罪となり、軍部が信用を失う>以降、フランスの安全保障政策を進めるにあたり、国境の防衛強化や重火器の増強、『武装せる国民』という表現に概念化された兵役期間の短縮などに示される、防衛主義デファンシスト的なアプローチを採用する傾向にあった。対照的に、アガディール事件以降のフランスはまたもや軍隊の専門的な利害を考慮し、兵役期間の延長や、より集中的で効率的な指揮系統の必要を認め、次なる戦争に対して明確に攻撃的な態度で臨もうと心に期するようになった。」(448-449頁)

 ポアンカレはバルカン地域に関与し、またロシアの政策を支持する方向に動いたが、初めそれによって「必然的に生じるリスク」には無知であった。そしてロシアの深い関与があったセルビア・ブルガリア間の条約内容と対墺戦争に巻き込まれる恐れを後で知ってショックを受ける。しかしポアンカレは逆にこのことがドイツのフランスに対する軍事圧力を緩めるだろうと判断し、バルカン問題に挑発的に接近することになる。(451-453頁)


 「こうした政策を裏で操っていたのはポアンカレであった。フランス外交にさしたる印象を残さぬままに現れては消えていった外務大臣や首相は大勢いた。しかし、ポアンカレは例外であった。彼は首相の立場と外相の地位を組み合わせて活用し、意に染まぬ勢力を撃退した。彼はしばしば早朝に職場にひょっこり姿を現したが、それがきっかけとなって、かつてはのんびりとしていた外務省が真剣に目的を追求するようになったのは明らかであった。彼は自ら書類に目を通し注釈をつけ、自分宛の手紙は自分で開封すると主張した。彼が時折、自分宛ての至急便を書いているという噂さえあった。ポアンカレは大使たちの自尊心に我慢できなかったが、当人が不機嫌そうに1914年1月に述べているところでは、連中はあまりに安直に赴任先の政府の見解を採用しがちであった。世紀転換期にデルカッセが行ったのと同じように、ポアンカレは外務省の支配を逃れようとして、信頼できる忠実な助言者たちからなるもう一つの官房を作り出した。」(第6章8節「パリ、歩調を早める」460頁)
 「いったん共和国の大統領にえらばれると<1913~1920年>、ポアンカレは後任選びに間接的に影響力をふるい、実力が不足している人物か経験が不足している人物、あるいは軍事戦略や外交に関して自らと同じ見解を有している人物、はたまたできることならこれら三つの条件を全て兼ね備えた人物が外相として自分の後継者になるようにした。」(461頁)

 官僚と政治家との権限闘争、あるいは人事管理の原則に反するような興味深い話がここには語られている。

(2017.9.3 記)