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1273号 第二次世界大戦の外交史(1)

2017年10月17日(火)

 芦田(あしだ)(ひとし)(1887-1959年、衆院憲法改正特別委員長、1948年首相など)が先の大戦の開戦原因論を主題に著した「第二次世界大戦外交史」(時事通信 1959年。岩波文庫上・下 2015年)は、上下二巻で本文は1,006頁、文字数は一頁が680字(40字×17行)の枠であるから68万4,080字となるが、実文量は10%ほど割引くと60万字強かと思われる。
 他方、クリストファー・クラーク(1960年~)の「夢遊病者たち」――第一次大戦はいかにして始まったか――は834頁であり、文字数は一頁810字(45×18)で67万5,540字、実際は60万字弱と計算できる。このように書物の文量はほぼ同じなのに、記述の迫力の差異はどこから来るのか。
 第一次大戦が開かれたのは1914年の8月4日である。 クラークの本(下巻)のカバー写真は宣戦布告当日の皇帝の写真を背景にベルリン市のウンター・デン・リンデンでの背広姿の群集(といっても上層階級の人たちか)が多くはカンカン帽や中折帽などを空に挙げて歓喜しているらしき写真が付されている。
 芦田均の外交史の冒頭は、1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻から始まっている。翌1940年9月19日、日独伊三国同盟の締結が決定されている。
 このように晩夏初秋は世界の戦さが決意された季節のようである。
 この8月9月は北朝鮮による弾道ミサイルが列島上空を通過し、水爆といわれる核実験が強行されるなど、朝鮮半島と西太平洋地域に強い緊張が生まれている。軍事行動が外交を抜きにして当り前とうけとめられる時代や地域になってはならない。

 上記芦田均の「外交史」は言う。
 「ヴェルサイユ平和条約が1919年6月に荘厳な式典をもって鏡の間で調印された時、誰いうとなく次の対戦は太平洋上で闘われると耳語した。」(第5章(1)ヴェルサイユ体制への反撃 73頁)
 「半カ年にわたる講和会議の席上において、日本全権は終始中国政府およびそれを全面的に支持するアメリカの全権を向うにまわして、山東問題を中心とする西太平洋の案件について議論を続けた。」

 中国政府は、大多数の国が承認したのに対し、ヴェルサイユ条約を調印しなかった。この論争は中国に胎動しはじめた国民解放運動の機運を刺激して、対外的な排日運動が広がる結果となる。これが又日本にも反映して、対支強硬論の横行となる。


 「ことにヒトラー、ムッソリーニの現状打破論が勢いを得て来たことは、日本の国内情勢に大きな波紋を投ずる結果となった。いわゆる「持つもの」と、「持たざるもの」との抗争は、必然的に国際連盟機構を爆破するに至るものと見て、それらの思想的潮流が疑いもなく満州事変や太平洋戦争を惹き起こす一つの要因となったのである。」(同74頁)
 「もともと支那大陸に対する積極進出論と平和交渉論とは、日本二大政党の間にも久しく争われた沿革をもっている。政党ばかりではない。貴族院、枢密院の内にも有力な動きがあって、それが陸軍の上級階層と密接な連絡をもつ勢力であった。(同75頁)

 若槻内閣下の幣原外交(1927年の南京事件、漢口事件)を、対支問題における「無抵抗外交」として枢密顧問官の伊東巳代治が国辱と痛罵、しかしこの頃はまだ軍部(宇垣陸相)は消極的な不満の表示にとどまっていた。しかし、宇垣の影響のもとに徐々に反薩長的な陸大閥の中堅将校の勢力が陸軍の中枢に根を張りはじめた。下級将校には激越な国士的風潮が根を張りだす。


 「日本のファシズムは軍部がその中心だったことをその最大の特色というべきである。そして、軍の主流となる連中の考え方は、ナチズムなどと大して相違のあるものではなかったが、ただ、日本のファシズムは、ナチとちがって、従来の軍の組織をそのまま使う以外に組織をもたなかったし、また、ナチズムのように一応の思想体系も持たず、長期的な計画性に乏しかった。また、ドイツや、イタリーのようにヒトラーやムッソリーニ等の新しい権威を作らず、伝統的に天皇をもりたてていったということも、その特徴のひとつである。」(同章(2)軍閥の揺籃 82頁)

 大川周明と陸軍中央部の左官将校たち(1931年の十月事件・三月事件の関係者となる)、北一輝、西田税と陸軍の少壮士官、海軍の一部による国家改造の軍人結社(1932年の五・一五事件、1936年の二・二六事件に係わる)は、政党政治の圧力による軍縮の不満を反映していた。軍の空気に対応し、政党内部にも政友会の森恪の一派は対支積極の外交を主張し、伊東顧問官などとも一脈相通じていた。


 「しからば日本ファシズムが政治の全体を直接決定的に動かすような実力を持つにいたった原因は(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)なんであったろうか(・・・・・・・・・)ということが問題となる。<…>中国に国民革命の火の手があがり、また、中国をめぐって列強の帝国主義との対立が激化するにつれて、日本が明治以来(・・・・・・・)血を流して守ってきた満(・・・・・・・・・・・)州の権益も危うくなってきたことが一番の原因(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)であったといえよう。これは、ここでなんとかしなければ日本の立つ道がなくなってしまうという考え方を軍人の間に成熟させた。そのうえソヴィエトの成長もあった。この対外関係こそが、ドイツの場合と同様、日本ファシズムの主要な契機となったのである。」(同82頁 傍点小生、以下同じ)
 「そしてこのように、対外問題が(・・・・・)日本のファシズムの直接的な原因となったからこそ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)当然(・・)軍がそ(・・・)の中心とならざるをえなかったのであろう(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(同82-83頁)

 このところの見解については、必ずしも軍が中心とならざるを得ないものだったのかどうか主張性に欠ける。


 「満州事変を一つの契機として、日本の国家意思は統一を失い、軍が1つの武装した強力な政治団(・・・・・・・・・・・・・・・)体として出現(・・・・・・)し、いわゆる統帥権独立の名の下に、軍の行動はすべて他の関与を許さないものとなった。しかも、軍の総意という名目のもとに、軍部大臣が軍事だけではなく、外交や財政をふくむ国務のすべてに強力に発言する時代がはじまったのである。」(第5章(3)日本ファシズムと軍部 84頁)

 青年将校の一団と右翼とが、1932年の血盟団事件(民政党の井上準之助、三井の団琢磨ら殺害)、同年の五・一五事件(犬養首相を殺害)を起こす。政党政治に反対し、それにつながる勢力を排撃し、天皇と人民のあいだに介在する一切の存在を除去するという考え(天皇親政の名目)に立った。彼らは破壊計画は持っていたが、その後の具体的な建設計画は持ち合わせていなかった。


 「かつて、プロシアの政界にビスマルクが指導権を握り、モルトケ将軍が軍部の統制を把握していた限り、かの国に軍閥の集結される余地はなかった。ところが前記の巨星たちが姿をかくして以後、ウィルヘルム二世の治下に典型的な軍閥が、内治、外交に権威を振るった。」(同85頁)

 この時代について、テイラー著「夢遊病者たち」には、第一次大戦のちょうど直前時期のドイツの内政・外交のことが描写されている。皇帝による混乱に満ちた逸脱した言動、軍部側の好戦的性の記述もあるにはあるが、上記のような軍閥的な集団の動きについては言及が見られない。

 「我が国においては封建の遺風が明治の中年まで尾を引き、軍人は市民に対して、多かれ少なかれ優越感を抱いていたけれども、軍が国民の信頼を得たのは、1895年の日清戦争と1905年の日露戦争に大捷(たいしょう)を博して、乃木大将、東郷元帥等の国民的英雄を生み出した後のことであった。」(同85頁)
 「この間に軍人が重要な役割を演じたにかかわらず、軍の巨頭としての山県元帥、山本権兵衛、加藤友三郎等が軍政を司掌する地位にある間は、軍閥とおぼしき徒党は存在しえなかった。それは他面政界において、伊藤博文、桂太郎、西園寺公望等が軍を抑止する実力を発揮しえたからであった。」(同85頁)

 幕末・維新の記憶つまりは江戸期の精神が、大正期ごろまでは遺風としてまた矜持として、指導者たちの心構えにあったということか。


 「ところが明治以降の政界の巨頭、軍の巨星が影をひそめる時代に入って、政党の勢力も次第に両党対峙の議院内閣に移行した。民主主義的思潮の盛り上がるにしたがって政党内閣は世論を背景と(・・・・・・・・・・・)して権力を掌握し(・・・・・・・・)軍人と官僚の地位は次第にこれに抑えられる形に見えた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(同85-86頁)

 幕末期までに生まれた人たちは、ほぼ大正時代中に死去している。なお大正時代は1912年(大正元年)~1925年(14年)である。
 桂太郎     1847-1913年   山県有朋    1838-1922年
 伊藤博文   1841-1922年   加藤友三郎  1861-1923年
 山本権兵衛 1852-1933年   西園寺公望 1849-1940年


 「満州事変以後、歴代の政府が軍部をコントロールしえなかった最大の原因は何であったろうか(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()()根源をなすものは明治憲法の性格と(・・・・・・・・・・・・・・・・)その運用に伴って形成された慣行であった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)といわざるをえない。」(同86頁)

 大正、昭和の時代に入って、元老重臣等による帝王学は、君臨すれど統治せずの原則となり、政治の方は議院内閣制度の下で、「非常有事の際の作戦用兵」つまり「統帥権」は、天皇自らが行使されない限り軍が天皇の名において代行するという悪弊が生じた(86~87頁あたりの説明)。
 しかし、本書で軍国的風潮がさかんとなったのは、日本の国体観とは相入れぬイギリス流の君主像を追求したことが原因とするのは如何なものか。また、明治憲法とその運用を原因とするのはどうか。


 「日支事変から太平洋戦争の期間を通じて、日露戦争当時のような厳正な軍規(・・・・・)――あるいは武士(・・・・・・)気質(・・)――が全く地に堕ちたことは(・・・・・・・・・・・)もっぱら軍の教育の変質的な傾向から生じたものである(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(同章(4)日本軍閥の特異性 83頁)
 「第一次世界大戦以後において我国の幼年学校、士官学校の教育、それに伴う軍隊の訓練等、すべてが偏狭に流れ、ヒューマニズムを軽視したことは争うべからざる事実である。軍は日本の青年に(・・・・・・・・)常識をさずけることを忘れて(・・・・・・・・・・・・・)、軍人としての職責を重視するあまり、目的のためには手段をえらばない風潮を養った。従って政治経済等に関する常識に乏しく(・・・・・・・・・・・・・・・)部内の指導者としても(・・・・・・・・・・)占領行政等の担当(・・・・・・・・)者としても不適格な人間にしてしまった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(同88頁)
 「ことに軍規の弛緩として指摘されたことは(・・・・・・・・・・・・・・・・)軍閥の横行時代における下剋上の弊風である(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。<…>これらの事実は公然と表面に現われなかったけれども、一皮剥けば、その裏面はまことに百鬼夜行とも形容すべき混乱を生んだものである。」(同88-89頁)

 第一次、第二次大戦のそれぞれ直前におけるヨーロッパ各国の外交折衝に関する関係史の描写を読むとき、とくに第一次大戦前のヨーロッパ各帝国の君主側の言動には問題が多かったと感じるが、閣僚、外交官と軍部との関係は、文武拮抗ないしは文官統制が比較的なされていたと見える。日本の軍部専横という当時の一大内患を、軍人の教育のせいだけにしては歴史記述にはならない。そもそも「軍閥」と一括りにされるものとは何だったのか、著者が代表していた文官側の教育と気力は一体那辺にあったか。


(2017.8.31 記)