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イッセイエッセイ

1274号 政治と軍事──第二次世界大戦の外交史(2)

2017年10月17日(火)

 <第5章(5)「軍閥の主張した大陸政策」>
 「<…>幣原外交と称する国際協調政策に不満を抱き、中国革命政権の日本排斥運動やソ連勢力の東漸に不安焦燥の念を抱く軍の青年将校は、日本政府と軍の首脳に諮ることなく、多年鬱積した不満のはけ口として対岸の満州をえらんだ。しかしそれにはもっと深い原因が存在していた(・・・・・・・・・・・・・・)見のがして(・・・・・)ならないことは陸軍が多年ロシアを叩くことに心血をそそいだという点(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)である。」(89頁)

 ロシアをいわゆる仮想敵国と見なしたことが、重大な原因なのかは不明である。

 「北進政策に対する一大障害は、中国の排日である。シベリア、蒙古に対する跳躍の背後を安泰にする意味からも排日の気運を苅り取らなければならぬ。<…>陸軍は実力を用いて排日を抑止しようと考えた。」(91頁)
 「満州事変にスタートを切った軍部の大陸侵攻は1937年7月、日支の全面戦争に拡大したが、まだその頃の軍閥は、多少とも枢密院や帝国議会に遠慮しつつ、一進一退の潮時を見はからって行動した。ところが第二次近衛内閣(1940年7月)において松岡外相が就任して以来、文治派の勢力は一層後退したのであった。」(91頁)


<同章(6)「政党および世論の無効化」>

 五・一五事件(1932年)によって犬養内閣が倒れ、昭和初期から数年つづいた政党政治は、軍人の直接行動によって幕を閉じる(森恪らの影響下の政友会と軍が結びついた挙国一致内閣の成立――齊藤実内閣)。

 「政党の有力者または有能な官僚の一部は、あるいは故意に(・・・)あるいは心ならず(・・・・・・・・)軍部に阿諛しな(・・・・・・・)いまでも協力に熱意を示し(・・・・・・・・・・・・)よって権勢の地位につくことを心がけた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)これは満州事変から降伏に(・・・・・・・・・・・・)()() 15()ヶ年間の日本の政治風俗として特筆せらるべき点(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)である。」(94頁)

 内閣の政党代表や官僚たちも、戦争指導には事情を知らされず、外交の根本方針にも軍の方針にも盲従するほかなく、挙国一致の名目で軍の勝手な行動を裏書して甘んじて責任を分担した。そして戦時体制の強化、軍官による統制が必然的に強化されていった等と記す。しかし「日本の政治風俗」と強調して述べられても、困るばかりである。


<同章(7)「軍部に引きずられた近衛の告白」>
 1937年7月の盧溝橋事件が起った当時の「近衛手記」が引用されている。
 「政府と統帥部との関係がいかに奇怪なものであったか」について、首相が残した記録が物語っていることを述べる。これを読むと、軍事や外交ひろくは当時の政治上の事柄を内閣がまさに指導すべきことであるはずなのに、まるで他人事のように語られておりその弛緩の程は不満の念禁じがたい。

 「一体どの辺まで行ったら軍事行動が止むのだろうか。<…>大体の目安を知っておかないと、口に不拡大を唱えても、実際は適当な手を打つことができない。<…>軍部大臣以外の者は、私はじめ各閣僚とも、この点について、何の報告も得られない<…>質問すると、杉山陸相は黙ったまま一言の返事もしない。<…>海相米内光正が<…>と答えた。すると杉山はたちまち顔色をかえて「こんなところで、そういっていいのか」と海相をどなりつけ<…>一座は白けわたり<…>それきりになってしまった。<…>つらつら考えてみるに、私が内閣を組織した頃、陸軍内部の空気はよくなかったように思われる。軍の中堅へ一番やっかいな連中が坐っていた時である。<…>軍がこれだけの事変を起こすつもりならば(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)事前にしっかりした計画をたて(・・・・・・・・・・・・・・)万全な準備を整えた上でやるべきであるのに(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)そうい(・・・)う計画もなしにずるずると事件に引きずられていったことは(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)なんとも残念なことである(・・・・・・・・・・・・)。」(近衛日記の一部 98-107頁)

 以上ごく一部を適宜抜き出しその他のところはあまりにひどく省略してしまったが、心境ばかりがここに語られていて行動が見られない。その覇気のなさは「なんとも残念なことである」。
 「元老西園寺公をして云わしめれば『近衛が総理になって何を政治していたか自分にもちっともわからぬ』と嘆かしめたものであった。」(108頁)

 結局のところ指導者の人材が欠如してしまったということらしいのであり、いつの時代においてもこのことは注意がいる。


<第6章 外交低迷時代(1)「枢軸外交と平沼内閣」>
 「近衛の後継者として枢府議長平沼騏一郎が新しく登場した。平沼は国本社と称する右翼団体の親分であり、これによって軍人や財界人とも通じていた。この点が国内の右翼を抑える実力あるものとして買われたわけである。しかし近衛の後を受けて混乱した内政と、紛糾した外交とを燮理(しょうり)して行くことは容易な仕事ではなかった。」(108-109頁)
 「しかし平沼は外交と経済の問題には全くの門外漢であった。平沼が就任の直前に池田成彬に語ったところは、『英米を敵にまわすことは、日本としてよくないが、しかしただいたずらに英米と合同する外交は面白くないから、多少こわもて(○○○○)で行かなければいかん』と平沼がいった。そこで池田が『そんな馬鹿なことはない。日本の実力を考えて外交をしなければ、いたずらにこわもて(○○○○)で行って、万一誤った場合に国をどうするか』と話したところ、平沼は黙っていた。以上の寓話は平沼の外交に関する感覚として要を尽くしたものである。この言葉を頭において彼の施策の跡を眺めれば、多くの場合に判然と釈明されるであろう。」(109頁 傍○は原文に傍点)

 当時の日本の外交を主導すべき勢力は、一体どこに行ってしまったのか地に隠れたのか。


<同章(2)「防共協定強化の経緯」>

 「陸軍の首脳部は、防共協定をやがて日独の軍事同盟に切りかえることを初めから画策していた。最初にその口火を切ったのは、陸相板垣征四郎であって<…>」(110頁)

 「その頃政府の綱紀が全く弛緩していたことは、出先の外交官吏の不服従の例をみても明らかであった。防共強化の問題については、ベルリン駐在の大島大使、ローマ駐在の白鳥大使が参謀本部と連絡していつも独伊の立場を支持し、本国政府の意に反した行き過ぎの措置をとった。」(144頁)

 これは第一次大戦直前の仏外相ポアンカレが、相手国べったりの輩下の外交官を撃退、刷新させたのとは好対照、病理現象は類似していたのだが心構えが全く正反対である。(1269号「力の原理の支配」参照)


(2017.9.14 記)