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1276号 終戦内閣

2017年11月12日(日)

 世に言う「終戦内閣」の首相であった鈴木貫太郎(1867・慶応3年~1948・昭和23年)が回顧して語ったところを、青木常盤氏(日本青年協会理事)が昭和14年から昭和19年までの間に口述記録をして、原著者没後の昭和24年に刊行された『鈴木貫太郎自伝』(中公クラシックス2013年 小堀桂一郎校訂)を一読した。著者本人が稿訂を見ていないという亡後の経過があって、回想の前後や文章など脈絡をやや欠くところがあるが、鈴木貫太郎の話すところを通して、かつての時代の戦争や軍隊、総じて戦前の人々の物の考えや歴史の転変を知る上で有益な本である。
 自伝の主人公の海軍大将は、千葉県の関宿(せきやど)の人である(父は同藩の代官職であった)。一世を風靡した例の歌謡曲「潮来の伊太郎」の「ここは関宿 大利根ぐらし」という歌詞にある関宿である。40年余り前に小生かつて茨城県で仕事をしたことがあり、当時は利根川の南側に一つだけ離れて飛地の五霞村という自治体があった(現在もそうと思える)。そこを視察するために行くには直接に橋がなく、大廻りして近くの千葉県関宿の町をいったん通って到達する必要があったのである。その折にこの鈴木元総理大臣の生まれの地に石碑を見た記憶があるのである。またこの地は将棋の阪田三吉のライバルであった関根金次郎名人の出身地でもあり、石碑か墓かその関係のものも見学したような気がする。その頃の関宿周辺はずいぶんと鄙びた広々とした地域で、文字どおり大利根無情という様子であったと憶えている。今はきっと首都のベットタウンになっていて、全く様変わりをした土地柄になっているのではと想像する。

 この自伝からもうかがえるのであるが、鈴木貫太郎の信念は、軍人はすべからく軍務に専念すべきであり、政治に無用の関与をすべきではないという考えの人であった。しかし戦前の昭和史の現実は、その反対に軍人がますます先鋭化して政治の方向に口を出すようになり、国策を指導力を持ちバランスをとって遂行する理想とはいかにも遠い歴史的展開を示すことになった。このことは薩長閥でもない鈴木貫太郎がさまざまな幸運、才能と信念によって高位に登りつめ、政治を左右する立場に置かれたとき、かえって十分な指導力を持つことができたのかどうか、自伝を読む限り是非を判断しかねるところがある。軍人として自己に限界を置いたために、政治や歴史全般に対する継続的な関心と追究が、果たして十分であったのかどうかに関する微妙な問題なのである。そして鈴木貫太郎すら既に後輩たちの歴史の無知に懸念を覚えて再教育に努めている。
 たとえば海軍兵学校の校長時代の話し。
 「兵学校の教育といっても、私のは、軍人は軍人で、御勅諭のままに、専心本分を尽してゆくばかりで他の問題には頭を向けない。軍人が政治問題などに頭を突込むのは二心を抱く様なもので、ただ皆が東郷さんになれ、精神さえ東郷さんなら一兵卒でもかまはんと教へたものです。講話もそういう方向からの話ばかりでした。今の捨身の精神です。縁の下の力持で至誠以て君恩に報い奉るばかりでよい訳ですから、国家の防衛に任ずる職務は日本建国の歴史を永遠に伝える所の重大な職責で、政治などといふ権力の一時的な争奪などといふ事とははるかに高尚な重大な任務があるのであるから、一心不乱に軍人としての本務に邁進しなければならんと常に生徒に話したのでした。」(「第21回兵学校長」の時代(大正8~9年)の講話から 260頁)
 「兵学校時代の私の感じたことは、生徒が私の宅に来て話す間に歴史の事を訊ねて見ますと誠に当時の中学校の教育に欠陥がある。歴史の知識が欠如している。特に日本歴史がさうだ。これでは国民の精神を振作する上に面白くないと思ひまして、それから武士道教育をしたいと思ひまして、特に一週間に一時間でも良いからかういふ方向の教育の為に時間を与へたいと思って、橘親民といふ文学士出の教授に頼んで歴史から武士道発達の調査をして貰って生徒に話して貰ふやうに依頼しました。徳育の方面でもその当時、広島の高等師範学校の校長さんで吉田賢龍といふ人に依頼して毎週一回学校に来て貰って生徒に講話をして貰ひました。その人は哲学に明るい人格者で教育の方面では有名な人で、高松宮殿下(注 伏見宮、久邇宮殿下とともに生徒として入校)にも、そういふ方面の御教育を申し上げた訳です。」(同258頁)
 当時の歴史の教育が実証的な歴史学に至っていたかどうか、教育の不足よりも当時の歴史学の遅れの方が問題だったのかもしれぬ。
 鈴木貫太郎は、小学生のころは「十八史略」中学校では「日本外交」「政記」に親しんだと言っている(第1回14頁)。また、日清戦争直後の回顧のところに、イギリスなどが東洋兵学(孫子)などを日本よりもよく研究し英訳していることを感心している話が出ている。(第13回179頁)
 そのほか本書中、参考になったところのうち数点を記す。
 鈴木貫太郎が14期生の生徒として海軍兵学校に入学したのは、明治17年(1884)のことである。日露戦争(日本海海戦)では駆逐艦隊(朝霧)の司令として水雷攻撃によって戦果を挙げた。
 先日、松山城下にある坂の上の雲ミュージアムを見学したが、その秋山真之(1868-1918年)(兵学校の17期生)のことも書いてある。その時秋山は参謀であったが、鈴木貫太郎が沈めた敵艦のうち一隻分を他の艦隊の手柄として「振分けしたから承知してくれ、と秋山はいってゐた。秋山らしいいひ方だったので、よろしいといっておいた。経過を東郷さんに申し上げたら、白昼攻撃の際の事は、いやあなたの攻撃はよくみてゐましたといはれた<…>」と書かれている。
 鈴木貫太郎は兵学校に120人の同期の一人として入学し、学校は東京築地にあったのだが、これは鹿鳴館時代と重なっていて、卒業直後、学校は地方の広島・江田島に移ったことも書かれている。
 さて話題が現代にとぶのだが、今年の夏、政府は東京の私立大学の定員を抑制する方針を知事会の要請などをうけて打ち出した。これに対し私学側は、大学の自由の確保や産学のイノベーションの阻害になるなどとして不満の意を示しているが、昭和の初期は教育機関が東京を離れていた方が望ましいという考え方があったことを教えてくれる。
 「その当時は、繁栄な東京で教育するのはよくないという批評があり、数年前から土地を物色してゐたのだった。江田島といふ所は、安全な碇泊場があり、陸の方も埋立をすれば広い土地も得られ、海陸共に具合がよい。また英国の兵学校が島にあったので、それにならったのかも知れぬ。日本の海軍は初めは英国の世話を受けたのだが、当時の英国から来た教官の士官たちは皆立派な人を集めてよこしてくれたもので、日本に来てゐた人たちは、帰国後有数な地位にも就き、大将になった人もいる」(第2回海軍兵学校25頁)

 英国人などのお偉い外国人が日本に対し献身的な教育をしたというこれに類した話しが一般教育の分野でもあったことが知られている。その背景にはいかなる国際情勢あるいは日本の国力隆盛の物語があるのだろうか。

 第二の話。明治24年から26年「鳥海」という水雷艇の艦長となったがかなり暇であった(第3回34-35頁)。仕方ないので、「本でも読めと兵学校で習ったのを復習し出した」。
 トーマス・マコーレの「フレデリック大王伝」(1896年)、フィリップ・コロムの「海戦論」(1891年)、アルフレッド・マハンの「海上権力史論」などを読んだとある。そして艦隊の戦闘陣形の研究をした。明治29年に海軍大学を受験した際に、ちょうど最上の戦闘陣形を論断せよという問題が出て役に立ったと書くのである。
 「暇な時、不平な時、これは勉強するに限るとそれから思ひました」(第6回の三89頁)
 第三の話。軍隊における海軍と陸軍の指揮のちがい。大正13年、司令長官として旗艦「長門」に乗って台風の大荒天の中、本州西岸沿いに全艦隊を率いて館山から九州佐伯に無事乗切ったときの話。
 「こんな時に司令長官たる者が当直士官や参謀長の報告を聞いてから命令を下したのでは艦を損じる。自分の眼で見て即座に命令を下さねば、間に合わぬ。この点は海軍と陸軍は大層違ふところで、陸軍は自分で見ることが出来ないから人に聞かねば解らぬが、海軍では自分が最も困難な時に於いていつも先頭に立って命令を下す。それが聯合艦隊司令長官の責任ですから。私は思ひました、聯合艦司令長官は年をとっては出来ぬ事だと。東郷元帥でもさうです。ふだん物をあまりいはれぬ人だったが、しかし物事は細かい事まで考えてゐる方であった」(第24回連合艦隊司令長官281頁)
 また現在の話題に帰る。先日、コマツの会長からお話しを伺う機会があった。海外の大企業のトップたちはほとんど本社にはおらず、会社の現場を絶えず見て回っているという事であった。そんなに企業現場に大きなエネルギーをかけると全体の管理は大丈夫なのだろうか、どんなメリットがあるのだろうかと伺ったところ、現場を詳しく知ること自体が最終目的ではなく、そこから得られる経験や情報を基に、何か別の断片的な情報や事件を入手したときに、それを新しい事業展開の参考にしたり、危機管理の際のとっさの行動に役立てられるという答えであった。昨今の日本のいくつかの大企業の失敗は、皆この点の欠如にあるのではないかということであった。

(2017.10月末 記)