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イッセイエッセイ

1286号 国語と国語の間

2017年12月28日(木)

「ヨーロッパの言語」(1918年)アントワーヌ・メイエ著
著者メイエ(Antoine Meillet 1866~1936年)は比較言語学の巨人であり、ソシュール(1857~1912年)の弟子である。言語変化を歴史や社会など外的条件の関連において理解する1950年代ごろ誕生した社会言語学の先駆者であるとされる(訳者解説による)。
第1章「先史時代」から第34章「人工語の試み」(拙注 エスペラント語のことである)まで、ヨーロッパの印欧語を中心に論じられている。
メイエは少数言語(アイルランド語、ハンガリー語など)に対し批判的な態度を取り、言語の増加には益がないこと、文明は必ずや統一に向い小言語は消滅するという主張である。
「メイエはフランス語に代表される『文明』をそなえた言語こそが言語の名に値するとの確信をもっている。これは言語の平等を原理原則とする現代の言語学の立場にそぐわないもので、少数言語話者に対して抑圧的に映るかもしれない。しかし人類の長い歴史において、とりわけ印欧語の文化と発展の歴史の中で人類はたびたび言語を取り替えてきたことから、小さな言語を捨てて、大言語に乗り換えることは特異なことではない、とメイエは力説するのである。実際フランスにおいてガリア人はガリア語からラテン語に乗り換えた。またメイエの時代では、言語が人間のアイデンティティに結びついているとの考えはまだ生まれておらず、ましてや言語権が人権の一部であるとの発想はメイエにはない。」(「訳者解説」525頁から)
なお、メイエが印欧語学者としてほとんどの言語に通じていたのは当然だが、解説によれば古典語、現代語を合わせて約30語にも及ぶとある。
「第一次大戦の結果から生じた新たな政治や経済、社会の状況は、やがて新しい言語状態を規定するだろう。小さな民主主義国家は小さな民族語に満足する。しかし、今日では俚言が死滅しつつあるように、これらの小言語も死滅するであろう。そして、世界に民主主義が確立されるとき、世界に通じる表現手段が見いだされるだろう。」(巻末「結論」から474~475頁)

 著者の総括的な主張である。しかし一方で現代ではフランス語がグローバル社会で文明語であるという観念はすでにないであろう。

 「近代語は一つの同じ文明に仕えることから、互いに正確に翻訳される傾向が日に日に増している。類似した等価である言い回しが、あらゆる言語に見られる。ヨーロッパ西部の人が隣人の言語を学ぶことから得る知的利益は、その言語が昨今の文明の表現にとどまるほど減少する。精神に利益をもたらそうとして外国語学習を極めるには、多大の時間を必要とする。見かけだけの学習ならば、それは知的鍛錬にはほとんど何ももたらさない。高級な国際ホテルに泊まったことがある人なら、レストランの給仕長が客の質問に答えて四つや五つの異なる言語をやすやすと操る様子をみたことがあるだろう。さまざまな国で仕事をしながら学んでも、彼らの思考が本当に豊かになることがなかった。実用的観点から近代語を学び、それらの言語の現在の形態にのみ関心を寄せる人々にとって、近代語の学習から得る知的収穫はたいしたものではない。」(第31章「第二言語として大文明語を使用することについて」から434~435頁)

 著者は外国語学習をその言語の文明ないし知的遺産を獲得するためという深い目的を前提にしているようである。しかし100年後の現代世界において、言語はほとんどコミュニケーションの手段、有益な情報を広く、迅く入手するための手段として考えられている(orとしか考えられていない)。となると、文明語や実用語という考え方そのものが成り立たぬかもしれない。この引用箇所の前で著者は、“同じ動物があるところではdogと呼ばれ、別の場所ではhoundと呼ばれることを知ったからと言って、それが何の役に立つだろうか”と述べている。しかし、言語そのものを統一できるのであればともかく、その言葉を知らなければ互いの話が通じないのが実際であろう。ともかくも、外国語の学習には多大の時間がかかる、というのは学者としての実感であろう。

 「近代国家という装置は、誕生のときに個人をとらえ、死ぬまでに個人を抱えこむもので、共通語の使用やその知識を押し付けるのだ。」(第12章「共通語の拡張」から180頁)

 日本人には歴史的、地理的な条件がちがうので、このような感覚はないと思われる。著者はフランス語の場合を例に示して、行政、学校、軍隊、文語(新聞、学習、文芸)、商取引においてフランス語を知らなければこれらの分野にアクセスができぬことを挙げる。

 「言語の死滅は、ほとんど気づかれないほど緩慢に行われる<…>彼らは進んで共通語を用いるが、それは共通語を話せることが優越性の証であるためである。そして誰しも上級とみなされる階級に近づき、模倣しようとする傾向にあるため、誰もがこの共通語を知るようになる。こうして人々は二言語使用者になろうとする。<…>若者はもう土地の話語を知ろうとも思わず、年少時にはこれを使ったにせよ、成熟した年齢になると忘れてしまう。土地の話語は老人がなお身につけている地方色の濃い衣裳と同じようなものだが、子どもたちはもうこれを脱ぎ捨て、隣町の普段着を切るようになっている。土地の話語は、それを知っている最後の老人がやがて死んでしまうと、そこで消滅してしまう。」(同章から202~203頁)

 著者はバルト海沿岸のスロヴィンツ語がドイツ語に排除されて、どの村にも数えるほどしか知っている老人がいないと記す。

 「言語の統一(拙注 ある言語の指導的な文法と正確な話し方を指している)とは、理想であり、人々はそれを追求するものの、これを達成することはできない。最良の場合とは、規範の統一はあるが、実現形の統一はない。<…>なぜなら言語は、道具として伝達されるのではないからである。言語とは人々が一定の体系に従って語り、その体系の規則に従って発せられたことばを理解する能力なのである。初めてことばの話し方を学ぶ子どもであれ、またどのような年齢の人であれ母語以外の言語を身につけようとする人は、すっかりできあがった言語能力を受け取るのではない。聞き取ったことの意味を理解しなくてはならない。それは、対象となる現実とともに聞き取ることばに直面し、自分たちが知覚した言語の構成要素間にある差異を観察することによって行われる。その差異は微細であることが多い。すでに述べたように、言語活動とは対立に他ならない。音や文法形態、単語は相互の対立によってのみ意味を生み出す。言語を学ぶ者は、このような対立を観察し、その意味を吟味し、それを再生できるよう訓練しなくてはならない。」(第13章「共通語の分化」から206~207頁)

 日本人が英語を学ぶとするなら、単に出来合いの英語を身につけることはできず、日本語との対立、比較の中で学ぶことにより真の学習者となりうる、と言っているのであろう。

 「昔のヨーロッパの状況とは、学術語がただ1つしか存在せず、極めて数少ないエリート層が、教養のない一般大衆の上位を占めていた比較的小さな社会であった。現代のヨーロッパの状況とは、どれほど下層の市民であっても教養にあずかり、影響を与える権利をもち、さらに誰もが科学と技術をよりどころとし、各人がごくわずかな労力を傾ける気があれば、ゆたかさと教養にあずかり、また自由に自分の影響を行使することも望むことができる。<…>ヨーロッパがアメリカに対して感じる弱点は多いが、言語の多様性は重大な弱点である。それにまた、多くの場合、言語が多様だからと言って、自己を語るにあたってもとりわけ独創的な表現が生まれるわけでもない。ヨーロッパにできた新たな文明はありふれたもので、真に文学を豊かにするものはない。下層にとどまりたくないと思えば、少なくとも大文明語の1つを身につけねばならない。ひとつの努力を惜しむならば、二つの努力を払わねばならないのだ。」(第29章「国語の不便さ」から396~397頁)

 第一次大戦後、民族自決と言語の多様な独立化を指している。そしてそれ故にもう1つの有力な言語を学ばなければならぬと言っている。

 「文明は統一に向かう。
各国の学者は、それぞれの個性から来る長所や欠点をもって学問に向かうが、このような個性も結局のところいかなる役割も果たさない。どこの国でも同じような道具を用い、同じような手法によって同じような問題を研究している。アメリカの研究室も日本の研究室も、ヨーロッパの研究室と同じ問題を研究している。」(第30章「言語的孤立に対する反動」から401頁)
「すべては統一に向かう。
ただ一つ、言語だけが分かれたままである。さまざまなニュアンスを表現することなく同じ事柄を語ろうとし、互いに正確に訳しあおうとしながら、異なる記号体系を用いている。」(同章から403頁)
「ヨーロッパにおける言語の分化を避ける措置として今まで用いられてきた手段のうち、ただ1つ有効なものは第二言語の使用である。国外でほとんど知られない言語を民族語とする人々は、古くから広く普及している大文明語のいずれか一つを用いる。フランス語や英語やドイツ語は、この目的に用いられた。」(第31章「第二言語として大文明語を使用することについて」から410頁)
「英語はその普及力により、文明語の中でも最も世界に広まっている。
()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()便()()()()()()()()。余計な擬古的用法がほぼすべてなくなって、動詞に残っている若干の古い形も、英語の中では重要な地位を占めておらず、使っていればすぐに覚えることができる。<…>()()()()()()()()()()()()()()()、そして、そのあらゆる近代的な点で、一般構造から見てたとえばフランス語の文法に近い。<…>()()()()()()()()()()()()()()。英語の発音には、おおかたのロマンス諸語やスラブ語圏に見られるような()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()1()()()()()()()()()()()()()()()()()()()1()()()()()()。<…>()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。<…>()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()
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、これも歴史に由来するとともに衒学趣味の結果であるが、その曖昧さはしばしばフランス語以上である。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。<…>英語の散文はより軽快で、どのような観念や理論を表すにも適している。」(同章から426~429頁、適宜抜すい)

 印欧語における英語の習得上の長短が特記されており、指導者が心構えとして自覚すべきことなのである(傍点小生)。

 「教養語として小言語をもつ者は、1つの大言語をある程度学ばざるを得ない。実際、オランダやスカンディナヴィア諸国のような第一級の文明を持つ小国の教養人は、たいてい優れた複数言語話者である。
世界の現状を見ると、文明人は少なくともフランス語、ドイツ語、英語の三言語を操らなければならない。そのうちどの言語がもっとも必要であるかは、各人の仕事の性質による。三言語すべてを読まねばならないし、三言語をすらすら使えなければ不便を感じる。
しかしながら、この三言語の知識も、文明世界の多様な言語という病に対しては一時しのぎにすぎない。」(同章から430~431頁)
著者の生地は、フランス中央部のムーランという町であると解説にある。
本書の第1章の「先史時代」の所で、著者は、今から4000年以上も前のヨーロッパの言語状態を知るよしがないとして、しいて接近できる方法としては地理上の固有名詞を調べることであろうとしている。
「ある地名が、現在そこで話されている言語で理解できる場合、それはたいていその土地の起源が新しいことの証拠である。フランスの県庁所在地のうちムーラン(Moulins)などはフランス語で明瞭な意味(「風車」の意味)を持つ顕著な例である。ムーランは一五世紀にできた新しい街である。」と故郷の地名を例にして記す。

(2017.12.16 記)
「ヨーロッパの言語」アントワーヌ・メイエ著
西山敏行・訳 2017年岩波文庫